永野原激戦地
永野原は旧街道なので道が狭いです。
永野原激戦地の案内板近くに薩軍の墓と書かれた場所がありました。
鍋田の車坂を上ると永野原という場所があります。
豊前街道沿いのこの地で激しい戦闘が繰り広げられました。
第2次山鹿口の戦い(明治10年3月3・4日)で桐野利秋率いる薩軍は南関を目指し北上するも、政府軍に阻まれます。
この時、兵力で勝った薩軍は優勢でしたが桐野利秋の元に田原坂陥落の報告が届きます。
しかし、この報告は誤報でした。
桐野利秋は優勢で南関まで向かうことができる状況でしたが誤報のため山鹿へ引き返すことになりました。
この誤報がなければ薩軍は南関まで進軍して官軍第一旅団・第二旅団の南下を食い止めることができたかもしれません。
永野原は旧街道なので道が狭いです。
永野原激戦地の案内板近くに薩軍の墓と書かれた場所がありました。
調べてみると今は無いとの事です。
椿井の激戦地跡
椿井は鍋田の南西にあります。
政府軍は永野原・鍋田の薩軍を椿井側から側面攻撃するため進軍しました。
それを阻止する薩軍と激戦になってます。
ここにある墓石には銃弾により欠けている物もあります。
徳永三兄弟顕彰の碑
椿井で生まれ育ち植木学校で学んだ徳永慎太郎・政次・重蔵の兄弟は西南戦争が始まると熊本の協同隊に入りました。
長男・慎太郎は水俣で戦死(享年35)
3男・政次は鍋田での負傷がもとで亡くなる (享年29)
5男・重蔵は菊池で戦死(享年24)
正泉寺
椿井集落にあるこの寺も激戦地になっています。
本堂には弾痕が残る柱があるようですが行った時は本堂が改装中で見ることができませんでした。
安田兄弟顕彰の碑
鍋田と椿井の間に西牧という場所があります。
ここから安田兄弟が熊本隊に参加して政府軍と戦いました。
碑には安田弾ハ・安田嘉七郎の名前が刻まれています。
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