長尾山から道を戻ります。
長尾山一本松から元来た道を戻り更に進むと尾根道が遮断されていました。
ここが小梓峠で薩軍が構築した堀切とのことです。
地図には道が途切れている様な印があります。
堀切の印でしょうか?
戦国時代ではないのに堀切?と思いましたが牧野会長曰く薩摩には外城制度があり、そこで暮らす士族は詰めの山城を整備、補修、管理していたとの事でした。
薩摩の詰めの山城例(知覧城)
そのため堀切、切岸、竪堀、土塁などを構築するのは慣れていたそうです。
切岸とは?
ご当地薩摩に居たのに知らなかったなんて本当に勉強不足を痛感…
薩摩はシラス台地で削り易い土地ですがここでは岩盤もあり構築する時は大変だったのではないでしょうか!
堀切横にはハシゴが掛けてあり一旦降りてからまた上ります。
上っている所は竪堀になります。
ここも薩軍の構築したものです。
竪堀を上から撮影。
ロープで上るほど急斜面です。
堀切といい竪堀といいとても素晴らしい遺構が残ってます。
当ブログに載せている西南戦争史跡⑦で薩軍兵士の働きがここなのでしょうね!
人吉の江代から明治10年5月に豊後方面に向かったのが野村忍介率いる奇兵隊19個中隊と工兵隊250名と薩南血涙史に書いてあります。
牧野会長の説明では7月頃から構築していたのではないかと言われていました。
野村忍介が先見の明にて構築させたのではないのでしょうか。
それからしばらく下ると新たに見つかった塹壕を案内してもらい説明を受けました。
ここは藪の中でわかりにくいですが、この様に埋もれている遺構もまだまだあるのではないかと思われます。
最初はこれまで案内してもらった遺構もこんな状態だったのでしょうね。
わかり易く整備された牧野会長や会員の方々、有志の方々のご尽力には本当に感謝します。
ここから駐車場へ戻ることになります。
駐車場への戻り道はこれまでで一番な急斜面をロープをつたって降りました。
ここも薩軍が構築した竪堀です。
本当に見どころ満載ですね!
降りた先には旧日豊街道小梓峠のトンネルがあり、トンネルの上には堀切が見えます。
トンネルは西南戦争の時には無く、その後に掘られたものです。
ここから駐車場へ向かい今回の遺構巡りは終了しました。
しかし!!!
牧野会長のご厚意によりオプションを付けていただく事ができました!
新しく発見された薩軍戦死者仮埋葬地
地元住民による口伝で場所を特定することができましたが窪地だったためにゴミが投棄されてスゴい状態だったそうです。
牧野会長と会員の方々によってゴミを分別、回収してもらい陽の目に当たることができました。
国道10号線とJR日豊本線の間の窪地にあります。
ハシゴを下りて見に行きました。
このハシゴと堀切のハシゴなどは寄付されたものだそうです。
有り難いですね!
今は改葬されて誰も眠っていませんが仮埋葬された所でしたので線香をあげさせていただきました。
この看板は和田越決戦を語り継ぐ会が自費で製作されたものです。
文化財のゴミ撤去や看板なんかは行政が行うことではと思いますが…
口伝でしかなかった場所が忘れ去られず発見されたことでは奇跡に近いものを感じます。
関心がある方は訪問してみて下さい。
薩軍戦死者仮埋葬地の詳細なブログを紹介しますのでこちらもご覧下さい。
それから和田越決戦の碑へ向かい牧野会長から説明を受けました。
説明の後更に追加オプションが!!!
薩軍本営跡と砲塁も案内していただきました。
和田越決戦の碑から山の中へ入り、しばらく進むと新たな山道とぶつかります。
そのぶつかった道は西南戦争当時の日豊街道で堂ヶ坂という坂だと教えていただきました。
堂ヶ坂の道は今よりも広かったようですが長年の月日によって道幅が狭くなってます。
しかし、上の方は当時の道幅で残っていました。
ここを桐野利秋が抜刀して駆け下り官軍兵士に切り込んたとのことです。
黄色の道が小梓峠越旧ルート・赤色の道が和田越峠越新ルート・青色の道が明治31年に開通した国道10号線(現在の国道10号線ではありません)。
赤色の和田越峠越新ルートに堂ヶ坂があります。
堂ヶ坂の先端は国道10号線和田越トンネル開通で削られてしまいました。
薩軍本営跡
ここで西郷隆盛は西南戦争で初の陣頭指揮を取りましたが被弾する危険があるので薩軍少将達に引きずられて後ろへ行ったそうです。
薩軍砲塁跡
ここには薩軍が設置した大砲3門の内の1門が置かれました。
長尾山一本松と小梓峠に四斤山砲、ここには臼砲を設置しており、この臼砲が和田越決戦の開戦が始まる最初の砲撃だったようです。
【四斤山砲と臼砲の違いは西南戦争史跡㉚に書いています】
開戦当初薩軍は四斤山砲28門、十ニ斤砲2門、臼砲30門、計60門の大砲を所持していたのに、これまでの敗戦・敗走で最後の決戦では3門のみとは…
これにて今回の遺構巡りを終了しました。
和田越決戦を語り継ぐ会では小梓峠~長尾山コースと小梓峠~和田越コースの遺構巡りを毎年開催しております。
これだけ数多くの塹壕・砲塁が直に見学できますし、西南戦争での堀切・切岸・竪堀の遺構はここにしかありません。
実際に見て説明を聞いて感動したい方がおられましたら是非参加して下さい。
今回の遺構巡りを終えて感じたことは当時の人達が構築したものが数多く残っており、現在において西南戦争の姿が垣間見えたことに感動しました。
和田越決戦を語り継ぐ会の方々による遺構の調査・整備・保全の活動は頭が下がる思いと共感する思いとでいっぱいです。
誰も目を配らなければ遺構は消えてただの山になるだけではないのでしょうか!
鹿児島、熊本、宮崎にはまだ数多くの遺構がありますが関心が低い為か有名な場所のみ観光地化され、その他は消えてしまう運命にあるのです。
3年後は西南戦争から150年を迎えます。
西南戦争の始まりと終わりの鹿児島、西南戦争最大の激戦地だった熊本、西南戦争最後の決戦地だった宮崎。
個人の力より会の力、会の力より町の力、町の力より市の力、市の力より県の力。
鹿児島、熊本、宮崎の県が三位一体となって150周年を迎える催しをして消えていく遺構を見直す必要があると思いました。
同じ様に共感できる方がいたらちょっとした声を上げてもらえたら嬉しく思います。
時代の矛盾を全て包み込み爆発して消えていった日本最後の内戦・西南戦争。
この戦争が風化しないことを望みます。
最後に遺構巡りを終了してから牧野会長宅にお邪魔することになりました。
昼食をご馳走になり、お土産までいただいて帰りました。
お土産にいただいた和田越から出土した四斤山砲の砲弾片
宝物としております。
牧野会長のブログ紹介
(#1 和田越決戦遺構の動画ではこのブログより詳しく説明されております)
書籍【西南戦争 和田越ノ戦を語る戦争遺構】
【和田越決戦遺構の代表的な写真】
自分が撮影していないのですが遺構の写真をいただいたので載せていきます。
薩軍が構築した2本の竪堀
薩軍が日豊街道を削って構築した塹壕
(長さは100mほどあります)
上記塹壕の整備以前の状況
(とても塹壕があるとは思えない…)
シダを刈り払っても間伐材がいくつもあったようです
間伐材をそのままにしておけばシダが生えるし、刈り払う時足元が危ないので撤去しています
整備、保全が本当に大変だとわかる写真ですね
奇兵隊の砲塁
官軍の砲塁
官軍弧状塹壕
奇兵隊の砲塁(一本松)
堂ヶ坂
薩軍の臼砲砲塁
官軍の砲塁
官軍弧状塹壕
奇兵隊の砲塁(一本松)
堂ヶ坂
薩軍の臼砲砲塁
薩軍が構築した切岸
小梓峠北側に二段構造の切岸があります
和田越決戦古戦場から出土した銃弾
牧野会長の功績をもっと知ってもらいたく載せさせていただきました。
三県共3年の猶予があるので今から予算や計画を取り組む時間があると思います。
行政が率先して動いてもらえれば自分達も行動しやすいのですが…
本当にそのとおりだと思います。