西南戦争史跡⑧に美々津町と門川町の史跡を載せていますが新たに訪問した史跡の紹介と美々津での西南戦争経緯を詳しく載せさせていただきます。
今回の再訪問で木々は刈られて文字が壊れていますが看板が見えました。
北側に土塁が残っています。
砲台跡
迫田鐵五郎は鹿児島城下の下加治屋町出身で同じ下加治屋町出身の西郷隆盛とは22歳年下でした。
辺見十郎太奮戦の地付近
鳴子橋
美々津の戦い
明治10年8月3日
佐土原・広瀬で官軍に敗退した薩軍は美々津の耳川に守備線を敷き、官軍の北上に備えました。
本営を富高新町(現在の日向市街地)と南に位置する笹野に置き富高新町には村田新八、笹野には辺見十郎太が入り指揮を取りました。
佐土原より敗走して美々津に着いた諸隊は以下の通りです。
雷撃二番・六番・八番・九番
奇兵一番・六番・十四番
振武一番・六番・八番
行進三番・六番・七番・九番
鵬翼一番・二番・六番
干城二番・四番
常山三番・七番
破竹五番
正義九番
熊本隊
協同隊
龍口隊
高鍋隊
佐土原隊
狙撃隊
宮崎新募隊
上記の隊は隊士が40~50名を超えるものも多かったみたいですが、その他の諸隊は数名から十数名と人員は減り隊伍を整えるものは殆どなかったようです。
薩軍本営の村田新八により指揮された配置
耳川の宮崎本道に雷撃隊
雷撃隊の下流に行進隊
雷撃隊の上流に振武隊
飯谷に高鍋隊
福瀬に奇兵四番・加治木奇兵隊
山陰に奇兵六番・十四番・奇兵三番
【奇兵三番は佐土原を守備していた各種
の8中隊を合わせて編成した中隊】
細島・渡川に宮崎新募隊
細島海岸に熊本隊
【後に熊本隊、協同隊、龍口隊は豊後口
へと向かいます】
美々津海岸に大砲2門、飯谷山に十ニ斤砲、細島・山陰に数門配置しています。
その他の隊は配置指揮の記載がないのでわからないですが耳川沿いに分けられたのでしょうね。
8月4日から8月6日まで耳川を対峙している両軍は砲撃を繰り返します。
官は耳川を渡河しようとしますが雨による増水で上手く渡ることができません。
なんとか渡ろうとする官軍に対し薩軍は耳川の真ん中あたりまで引き付け一斉に銃弾を浴びせました。
この銃撃戦で多くの官軍兵は倒れ溺れていったそうです。
2年前の美々津激戦地の写真ですが木々に覆われ看板が見えませんできました。
今回の再訪問で木々は刈られて文字が壊れていますが看板が見えました。
8月7日
8月6日薩軍の好守により耳川を渡ることができない官軍は別働第ニ旅団を大きく迂回させ、渡川・神門・山陰に向かわせました。
猛攻する別働第ニ旅団に渡川・神門の薩軍守備兵は敗走、勢いに乗った別働第ニ旅団は山陰にて奇兵隊を横から攻撃します。
虚を突かれた奇兵隊は激しく応戦するも次第に押され後退してしまいました。
別働第ニ旅団の進撃によって他の薩軍は退路を断たれ袋のネズミ状態となってしまい各隊はバラバラに間道や山に潜行して退路を探します。
延岡にいた野村忍介は佐土原の敗戦で美々津にて官軍を迎え撃つ報告を受け、『美々津は守り易い土地であるが上流に迂回して渡河すれば本営まで破られる。なので山陰の守備を強める事が大事である』と考え、これを伝えるべく急ぎ馬に乗り富高新町へ向かいます。
しかし、野村が富高新町の本営へ着く前に官軍は野村が予想した通りの進軍をして美々津は破られてしまいました。
薩南血涙史の著者である加治木常樹氏は当時加治木彦七という名で薩軍に参加しており、この時に各隊士同様潜行して潜伏し、潜伏中に城山陥落の報を聞くと鹿児島へ戻り自首して政府の縛につくことになります。
別働第ニ旅団の活躍により薩軍は敗走して、官は耳川を渡り富高新町を占拠できました。
戦線は更に北上することになります。
【史跡】
薩軍戦没供養塔と薩軍兵の墓
美々津町余瀬に美々津の戦いで戦死した薩軍兵の墓と供養塔があります。
放置された遺体を地元住民が埋葬したとのことです。
供養塔の右には41基の墓が並んでいます。
西南之役戦没者慰霊之碑
日向市幸脇の菅原神社には薩軍の西南之役戦没者慰霊之碑が建てられてられています。
福瀬神社
日向市東郷町山陰乙(西南戦争当時は福瀬村)
の福瀬神社は薩軍の屯所が置かれていたと云われています。
ここに配置された奇兵四番の屯所だったのでしょうか?
西郷南洲翁家来の墓
東郷町山陰乙にある墓です。
名前は高木岩三郎とありますが6239名の薩軍戦死者名簿にはその名がありません。
知っている方がおられましたらご教授よろしくお願い致します。
美々津の官軍墓地
美々津町公民館横の墓地に警視局一等警部補・細谷卓良の墓があります。
警視局なので新撰旅団の戦死者と思われます。
西南戦闘日注より
新町台場
八坂神社には幕末に高鍋藩が築いた台場があります。
美々津は日向国有数の港で宿場町や藩の御仮屋もあり、海上防衛の必要性から築かれました。
結局、異国に対して使用されませんでしたが西南戦争で再利用されています。
耳川南側なので官軍が使用したのではないでしょうか?
北側に土塁が残っています。
砲台跡
有栖川征討総督宮殿下御本営跡
細島にある摂津屋は江戸時代から薩摩の御用達で参勤交代ではここから船で大阪に向かっていました。
西南戦争では有栖川熾仁親王が本営として入られています。
細島官軍墓地
ここには可愛岳で戦死した東京鎮台歩兵第一連隊第三大隊長・迫田鐵五郎と美々津周辺での戦死者、和田越決戦・可愛岳突出での戦死者が埋葬されています。
墓地には320柱の墓石があります。
迫田鐵五郎の墓
鐵五郎は通称で諱は政豊です。
墓石には可愛岳にて戦死とありますが、延岡市在住の【西南戦争 和田越決戦を語り継ぐ会】会長・牧野義英氏が子孫の証言や薩軍と官軍の動向を調べると迫田少佐は可愛岳ではなく可愛岳西側の六首山から浜砂(はまご)集落間での戦闘で瀕死の重傷を負っています。
辺見十郎太は武士の情けで部下に命じ、後頭部を撃って絶命させたとのことです。
県名を見れば当時宮崎は鹿児島県だった事がわかります。
迫田鐵五郎は鹿児島城下の下加治屋町出身で同じ下加治屋町出身の西郷隆盛とは22歳年下でした。
同郷の下加治屋町生まれの縁で迫田鐵五郎は幼い頃、西郷隆盛の膝に乗せられたり、可愛いがられたそうです。
旧高鍋屋
昔は旅館として営業されていましたが現在は資料館になっています。
迫田鐵五郎の遺品等も展示してあります。
門川・辺見十郎太奮戦の地
富高新町を占拠した官軍は北上して門川に迫ってきました。
西南戦争史跡⑧で桐野利秋が門川で指揮して激戦していると載せていますが門川の鳴子橋付近では辺見十郎太や河野主一郎が迫りくる官軍と海上の海軍艦隊から放たれた砲撃の中奮戦しています。
その奮戦した場所には以前標柱がありました。
現在は標柱も倒れ、無残な状態になってました。
とても残念で早急に作り直してもらいたいと思っています!
辺見十郎太奮戦の地付近
鳴子橋
急速な時代の変化の中で皆が矛盾葛藤を抱きながらも己の信念を貫き戦った戦争です。
その先人たちの足跡を後世まで残してもらいたいと思います。
この記事、大変参考になります。どこだろう?と思ったところがほぼ網羅されていました。後追いして確かめてみたいと思います。
うろ覚えなんですが、耳川河口付近に桐野さんの陣地にちなんで「桐〇」とかいう地名があると聞いたことあるんですが、ご存じないでしょうか?
地名では残っていませんが桐野というバス停があるらしいですね。
まだまだ勉強不足な所も多いのでご教授よろしくお願い致します。