合志での西南戦争の経緯
鳥栖の戦い
(鳥巣)という地名でした。
一般的には鳥栖と書きますが薩南血涙史では鳥
巣とあります。
鳥栖には薩軍が布陣しており、山鹿を占領した
三浦少将率いる第3旅団が鳥栖攻略に動きます。
官軍は鳥栖の西側にある味取町から進軍します
が、大雨で手間取っている所に薩軍が反撃して
撤退してます。
その後、鳥栖の北側にある田島からと西側の味
取からの攻撃へと変更しました。
この戦闘で薩軍が潰走してしまいます。
しかし、薩将・別府晋介、野村忍介らが植木の
諸隊を率いて鳥栖に急行します。
油断している官軍の虚をついて攻撃を仕掛けて
敗走させました。
明治10年3月30日から4月15日まで何度も戦闘がありましたが、熊本城が官軍の手に奪還されると薩軍は防御線を木山方面へと後退し、鳥栖は官軍に制圧されました。
【西南戦争史跡】
薩軍砲台跡
野々島には二子山石器製作遺跡あり、その遺跡内に二子山古墳があります。
古墳は大きい方が1号墳、小さい方が2号墳で
す。
1号墳の上には凹みがあり、ここに薩軍が大砲を
置いて味取と田島から侵攻する官軍を防いでいました。
鳥栖付近の古写真(戰袍日記写真集より)
官軍第3旅団本営跡
南田島の本営跡です。
二子山石器製作遺跡の薩軍砲台跡から北に約3km程の場所にあります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます