宇城市での西南戦争の経緯
氷川・小川の戦いで勝利した衝背軍が現在の宇城市松橋町に迫りました。
明治10年3月28日松橋の旧久具村を主戦場として薩軍に衝背軍が攻撃を仕掛けます。
しかし、必死に堡塁を守る薩軍に苦戦し、やむなく兵を引き揚げることになります。
松橋の戦いでの期間に衝背軍は別働旅団の旅団名を改称しています。(詳細は西南の役㉕八代市に載せています。)
衝背軍は29日(この日は休戦日)に軍議を開き、翌30日に別働第1旅団と別働第2旅団が松橋の薩軍を攻撃しますが薩軍の守り堅く夜を迎えます。
31日午前6時衝背軍は総攻撃を加えます。
娑婆神峠を制圧した別働第3旅団も進軍してくると薩軍は陣地を捨て、正午頃に川尻へ撤退してしまいます。
薩軍戦死者49名、衝背軍戦死者96名と云われています。
31日官軍に3方面から攻撃され占領された松橋付近の古写真
松橋に残された堡塁跡
【西南戦争史跡】
久具橋
激戦地となった場所です。
久具村では伊地知末吉という薩軍兵士が戦死しています。
伊地知末吉は八代平野の戦いで亡くなった6名の薩軍少年烈士の1人で最年少の13歳でした。
松橋から川尻の延寿寺に運ばれ埋葬されています。
娑婆神峠(さばがみとうげ)
3月30日薩摩街道の娑婆神峠で薩軍と別働第3旅団が戦闘しています。
午前6時に別働第3旅団が攻撃を開始、午前11時には薩軍が撤退して制圧されました。
峠の岩清水薩摩軍陣所跡
ここに案内板がありますが陣所跡を見つける事ができませんでした。
永尾官軍墓地
この周辺に官軍の野戦病院があったようです。
ここで死去した27名と熊本県南部で戦死したものを合わせて150名が埋葬されています。
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