美里町・甲佐町での西南戦争の経緯
松橋を制圧した衝背軍は増援により別働第4旅団まで増えて明治10年4月1日には宇土、美里町の堅志田を占領しました。
4月3日に美里町の隣で緑川対岸の甲佐町から党薩諸隊の佐土原隊が堅志田の別働第3旅団陣営を襲撃します。
急襲された別働第3旅団は当初防戦一方でしたが形勢を立て直すと佐土原隊を三方より包囲して攻撃します。
佐土原隊は甲佐町の方に下がり緑川北岸に寄り迎え撃ちますが、再び包囲され甲佐から撤退してしまいました。
甲佐には薩軍の弾薬製造所がありましたが衝背軍に占領されてしまいます。
佐土原隊は堅志田で半数以上、甲佐で20名が戦死しています。
兵士の大半を失った佐土原隊は宮崎に戻ることになりました。
美里町激戦地の古写真
(現在の美里町役場中央庁舎近辺から北側の竪志田方面を撮影したと思われる)
上の古写真をカラー化
【西南戦争史跡】
日向佐土原隊戦没諸士合葬之碑
美里町中郡にある小さな墓地の1画にあります。
とてもわかりにくい場所でした。
これより衝背軍・別働第1旅団は現在の熊本市城南町から御船へ、別働第3旅団は甲佐町から御船へ、別働第2旅団と別働第4旅団は宇土から現在の富合町方面へ進軍することになります。
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