日奈久より進軍した官軍(衝背軍)は八代を占領します。
山門からの風景
春光寺は両軍の戦没者を弔う慰霊碑を建立しました。
春光寺の門は八代城三の丸から移築された永御蔵門です。
瓦には細川家の紋があります。
萩原堤(江戸時代に築かれた堤防)
現在も地元の方々により綺麗に管理されていました。
官軍(衝背軍)本陣跡
光徳寺には衝背軍の本陣が置かれ、別働第2旅団と黒田清隆参軍、山縣有朋参軍、大山巌別働第5旅団長がいました。
官軍(衝背軍)本営跡
慈恩寺には衝背軍の本営が置かれ、山田顕義率いる別働第3旅団、川路利良率いる別働第4旅団がいました。
薩軍本陣跡
衝背軍が八代を占領した報告が薩軍本営に入ります。
薩軍本営は徴兵のため鹿児島に戻っていた別府晋介、辺見十郎太に八代奪還の命を下しました。
伝令役には熊本協同隊の宮崎八郎が選ばれ、別府、辺見と人吉で合流します。
そのまま別府、辺見、宮崎等は八代に向け進軍します。
途中、官軍と戦闘を行いますが薩軍は官軍を退けて八代の萩原に出てきました。
町より少し奥に入った宗覚寺に薩軍が本陣を置いています。
官軍との戦闘により宗覚寺は山門以外焼失してしまいました。
山門からの風景
春光寺
肥後細川家筆頭家老松井家の菩提寺です。
春光寺には辺見十郎太が鹿児島で徴兵して編成された9番・10番大隊と大砲2門を設置して陣を構えました。
薩官両軍の激しい戦闘で戦死者、負傷者が多数でています。
春光寺は両軍の戦没者を弔う慰霊碑を建立しました。
西南役戦死者之碑
碑の正面は樹木に覆われ斜めからしか撮影できませんでした。
春光寺の門は八代城三の丸から移築された永御蔵門です。
永御蔵門の内側にある永御蔵番所
瓦には細川家の紋があります。
桜馬場の激戦地跡
春光寺門前を真っ直ぐ球磨川の方に向かうと、途中左手側に標柱があります。
八代の戦闘後には桜馬場に薩軍の遺体が埋葬されたと云われています。
宮崎八郎戦没の碑
明治10年4月6日八代制圧が目前に迫った薩軍でしたが宇土より急派された別働第1旅団(衝背軍は3月28日に別働第2旅団を別働第1旅団に、別働第3旅団を別働第2旅団に、別働第4旅団を別働第3旅団に繰り上げています。)2個中隊に背後からつかれてしまいます。
※元々あった別働第1旅団は熊本北部にあり、3月14日に第3旅団と第4旅団に編入されています。
これにより薩軍は総崩れとなって撤退してしまいました。
部隊を引き揚げる際に別府晋介は左足に重傷を負い、熊本協同隊参謀長の宮崎八郎は萩原堤にて戦死しました。享年27歳。
萩原堤(江戸時代に築かれた堤防)
八代神社(妙見宮)
この神社でも激戦が行われています。
神社のクスノキには今でも銃弾が残っているそうです。
歳月が経ち弾痕なんかもわからなくなっています。
若宮官軍墓地
ここには官軍の戦死者399名と横手町にあった横手官軍墓地(警視隊)270名が合葬されています。
現在も地元の方々により綺麗に管理されていました。
横手官軍墓地跡
明治10年8月に殉職した警視隊の墓地が造られましたが現在は若宮官軍墓地に合葬され、標柱を残すのみとなりました。
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