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ユングスタディ報告
10月5日【第8回】
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引き続き、ユング「チベットの死者の書の心理学」を読み進めていきました。
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バルド・テドルは、死者がバルドにて以下の三つの段階を経るとします。
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① チカイ・バルド : 死の瞬間に魂が経験する至高の状態
② チェニイド・バルド: カルマによって幻覚が現れる状態
③ シドパ・バルド : 再び現世に生まれる際の本能的衝動の状態
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これは、死者が解脱することができず輪廻転生してしまう過程、最高の意識状態からカルマによる迷いの状態に戻る過程でもあります。バルド・テドルはこれらの各局面において、輪廻から解脱する方法、あるいは転生するにしても比較的に良い世界に転生するための方策を説いていきます。これはいわば、死に際しての通過儀礼とも言うべきものになっています。
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ユングは西洋において、実用に供されている唯一の通過儀礼的方法は「無意識の分析」であるとします。無意識の分析とは、分析が深まることで人格の最高の状態が完成されていく過程であり、上の段階を逆にたどっていくことになります。それゆえユングは、この書を「逆に読む」ことを勧めます。これは、バルド・テドルの内容を、現代の西洋人にとって体験可能な事柄と結びつけて理解しようとすることに他なりません。
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ユングはフロイトの精神分析について、何よりもまずシドパ・バルドの領域の諸経験を明らかにしたと述べます。シドパ・バルドの記述には、死者が男女の性交を見て嫉妬する側の性に生まれるといった、いかにもフロイトのエディプス・コンプレックス理論が思い起こされる描写があります。シドパ・バルドは、現世の肉体に引きつけられて転生をする段階にあたり、心理学的には、生物学的な衝動に駆られた無意識領域の問題が扱われていることになります。
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ユングはフロイトの精神分析を、無意識的領域に踏み込んだ西洋で最初の試みとして評価する一方で、生物学的前提を元にすることで本能領域にとらわれてしまい、個人的主観をこえた心的存在(すなわち元型)の体験領域に進むことはできなかった、ともします。その先に進むためには、隠された(オカルト)領域に入らざるをえないとユングは述べます。
突然に「オカルトの領域」と書かれると戸惑うところかもしれませんが、ここでのオカルト領域とは、本能的な衝動とは異なる、場合によっては本能的衝動に対抗するような、元型的-精神的な方向づけに関わる領域を意味するものと理解できるでしょう。宗教的領域という言い方をしてもいいかもしれません。
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ユングは分析が進むにつれて、個人的無意識の問題が意識化されてくると、次に集合的無意識の問題が現れてくると指摘していました。チェニイド・バルドは、まさにこの元型的イメージによる集合的無意識の体験領域にあたるとユングは考えます。
チェニイド・バルドの段階では、様々な神々が日毎に順に現れてきます(最初の段階では穏やかな様相、次には怒れる姿となって)。これは実際、たいへん強迫的なイメージであって、ゆえにユングは「意識的状態が転倒するような危険を伴う」とします。
バルド・テドルは、それらの神々は自身のカルマの投影による幻影であること、そのことに気づくことによって導きがあり解脱が可能になると繰り返し説いています。こうしたイメージは危険なものである一方、明確な認識とともに意志的にそのイメージを受容することで、解脱に相当する次の段階へと人格の変容が生じるのです。
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フロイトが本能領域にとらわれて「オカルトの領域」に進まなかった、という記述は、ユングの自伝にある有名なエピソードを思い起こさせるでしょう。
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それはユングとフロイトがまだ懇意であった1910年、フロイトがユングに対し、「決して性理論を棄てないと私に約束してください。それは一番本質的なことなのです。私たちはそれについての教義を、ゆるぎない砦を作らなければならないのです」と語り、ユングが「砦って、いったい何に対しての?」と聞き返すと、「世間のつまらぬ風潮に対して──オカルト主義のです」と答えたという逸話です(『ユング自伝 1』河合隼雄他訳、みすず書房、1972.6、p.217)。
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ここでの「オカルト主義」とは、ユングが当時傾倒していた超心理学を指すようですが、ユングが今回のテキストのこの部分を書く際、このエピソードが頭をかすめていたのではないかと私には思えます。
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ユングの考えでは、人間の心の内部には本能的衝動だけでなく、これに対抗するような精神的・宗教的・元型的な衝動もあり、人間の意識はこの二つの領域の間の葛藤で揺れ動く存在です。バルド・テドルはこの両方の領域を順に扱っているものと理解されるでしょう。
一方、前期フロイトの考えでは、人間の内部に存在する衝動は生物学的本能に基づく性衝動のみで、これに対立するのが外界に由来して内的衝動の実現を妨げる現実原則です。フロイトはこの両者の葛藤で人間心理を理解しようとしました。
自伝の上の箇所で、フロイトはユングに自身の立場の堅持を求めたわけですが、ユングからすればこの考え方は、本来は人間の内部にあるはずの精神的・宗教的な衝動が外部に投影されていると見えるでしょう。それではバルド・テドルに表現されているような宗教的体験領域は理解できない、というのがユングの言わんとするところです。
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(フロイト的な)他者とのエロス的関係の問題や、(アドラー的な)権力的関係の問題などは、どれも人にとって現実的な問題であり、現実的な解決を必要とする「合理的な悩み」であって、特に人生前半期においては重要な意味を持ちます。これらを扱うには、フロイトやアドラーの「合理的な」心理療法が有効だとユングは言います。
しかし、人生後半期に重要になってくる「人生の意味」や「死」といった問題は、こうした「現世的な」問題解決の領域では扱えない「非合理的な悩み」であり、ユングはこれこそが自身の心理療法の対象なのだとします。(「心理療法の目標」(1929)を参照。邦訳:林道義訳『心理療法論』みすず書房、1989.1 所収)
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「人生の意味」においては、この現世での自分を俯瞰するような視点や価値が重要になってきますが、これは宗教的かつ超越的な体験、ユングの言う元型的領域の体験に関わるものです。それは生物学的に理解可能な、合理的で科学的な領域に必ずしも収まらず、多かれ少なかれ不合理な「オカルト」的領域に踏み込む話になってきてしまう。ユングはこの点を強く意識していたのではないでしょうか。
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図は、2019年後期スタディにてユング「心の本質についての理論的考察」を読み進めた際に、内容のまとめとして提示したものです。白い部分が意識領域、黒い部分が無意識領域で、ここでは本能の領域と精神の領域とに挟まれて、両者の間を揺れ動く意識のあり方が示されています。そもそも自我の本来的な役割は、この対立の中央にいて調整を行うことなので、対立の一方に偏れば精神的発達は止まる、とユングは述べています。
フロイトは①と②の葛藤で人間を考察しましたが、ユングは今回のテキストの中で、フロイトは②を②-1のみであると理解し、②-2の存在を見ていなかった、と指摘したことになります。ユングにとって重要なのは、むしろ②-1と②-2との葛藤であるわけです。
10月5日【第8回】
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引き続き、ユング「チベットの死者の書の心理学」を読み進めていきました。
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バルド・テドルは、死者がバルドにて以下の三つの段階を経るとします。
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① チカイ・バルド : 死の瞬間に魂が経験する至高の状態
② チェニイド・バルド: カルマによって幻覚が現れる状態
③ シドパ・バルド : 再び現世に生まれる際の本能的衝動の状態
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これは、死者が解脱することができず輪廻転生してしまう過程、最高の意識状態からカルマによる迷いの状態に戻る過程でもあります。バルド・テドルはこれらの各局面において、輪廻から解脱する方法、あるいは転生するにしても比較的に良い世界に転生するための方策を説いていきます。これはいわば、死に際しての通過儀礼とも言うべきものになっています。
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ユングは西洋において、実用に供されている唯一の通過儀礼的方法は「無意識の分析」であるとします。無意識の分析とは、分析が深まることで人格の最高の状態が完成されていく過程であり、上の段階を逆にたどっていくことになります。それゆえユングは、この書を「逆に読む」ことを勧めます。これは、バルド・テドルの内容を、現代の西洋人にとって体験可能な事柄と結びつけて理解しようとすることに他なりません。
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ユングはフロイトの精神分析について、何よりもまずシドパ・バルドの領域の諸経験を明らかにしたと述べます。シドパ・バルドの記述には、死者が男女の性交を見て嫉妬する側の性に生まれるといった、いかにもフロイトのエディプス・コンプレックス理論が思い起こされる描写があります。シドパ・バルドは、現世の肉体に引きつけられて転生をする段階にあたり、心理学的には、生物学的な衝動に駆られた無意識領域の問題が扱われていることになります。
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ユングはフロイトの精神分析を、無意識的領域に踏み込んだ西洋で最初の試みとして評価する一方で、生物学的前提を元にすることで本能領域にとらわれてしまい、個人的主観をこえた心的存在(すなわち元型)の体験領域に進むことはできなかった、ともします。その先に進むためには、隠された(オカルト)領域に入らざるをえないとユングは述べます。
突然に「オカルトの領域」と書かれると戸惑うところかもしれませんが、ここでのオカルト領域とは、本能的な衝動とは異なる、場合によっては本能的衝動に対抗するような、元型的-精神的な方向づけに関わる領域を意味するものと理解できるでしょう。宗教的領域という言い方をしてもいいかもしれません。
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ユングは分析が進むにつれて、個人的無意識の問題が意識化されてくると、次に集合的無意識の問題が現れてくると指摘していました。チェニイド・バルドは、まさにこの元型的イメージによる集合的無意識の体験領域にあたるとユングは考えます。
チェニイド・バルドの段階では、様々な神々が日毎に順に現れてきます(最初の段階では穏やかな様相、次には怒れる姿となって)。これは実際、たいへん強迫的なイメージであって、ゆえにユングは「意識的状態が転倒するような危険を伴う」とします。
バルド・テドルは、それらの神々は自身のカルマの投影による幻影であること、そのことに気づくことによって導きがあり解脱が可能になると繰り返し説いています。こうしたイメージは危険なものである一方、明確な認識とともに意志的にそのイメージを受容することで、解脱に相当する次の段階へと人格の変容が生じるのです。
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フロイトが本能領域にとらわれて「オカルトの領域」に進まなかった、という記述は、ユングの自伝にある有名なエピソードを思い起こさせるでしょう。
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それはユングとフロイトがまだ懇意であった1910年、フロイトがユングに対し、「決して性理論を棄てないと私に約束してください。それは一番本質的なことなのです。私たちはそれについての教義を、ゆるぎない砦を作らなければならないのです」と語り、ユングが「砦って、いったい何に対しての?」と聞き返すと、「世間のつまらぬ風潮に対して──オカルト主義のです」と答えたという逸話です(『ユング自伝 1』河合隼雄他訳、みすず書房、1972.6、p.217)。
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ここでの「オカルト主義」とは、ユングが当時傾倒していた超心理学を指すようですが、ユングが今回のテキストのこの部分を書く際、このエピソードが頭をかすめていたのではないかと私には思えます。
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ユングの考えでは、人間の心の内部には本能的衝動だけでなく、これに対抗するような精神的・宗教的・元型的な衝動もあり、人間の意識はこの二つの領域の間の葛藤で揺れ動く存在です。バルド・テドルはこの両方の領域を順に扱っているものと理解されるでしょう。
一方、前期フロイトの考えでは、人間の内部に存在する衝動は生物学的本能に基づく性衝動のみで、これに対立するのが外界に由来して内的衝動の実現を妨げる現実原則です。フロイトはこの両者の葛藤で人間心理を理解しようとしました。
自伝の上の箇所で、フロイトはユングに自身の立場の堅持を求めたわけですが、ユングからすればこの考え方は、本来は人間の内部にあるはずの精神的・宗教的な衝動が外部に投影されていると見えるでしょう。それではバルド・テドルに表現されているような宗教的体験領域は理解できない、というのがユングの言わんとするところです。
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(フロイト的な)他者とのエロス的関係の問題や、(アドラー的な)権力的関係の問題などは、どれも人にとって現実的な問題であり、現実的な解決を必要とする「合理的な悩み」であって、特に人生前半期においては重要な意味を持ちます。これらを扱うには、フロイトやアドラーの「合理的な」心理療法が有効だとユングは言います。
しかし、人生後半期に重要になってくる「人生の意味」や「死」といった問題は、こうした「現世的な」問題解決の領域では扱えない「非合理的な悩み」であり、ユングはこれこそが自身の心理療法の対象なのだとします。(「心理療法の目標」(1929)を参照。邦訳:林道義訳『心理療法論』みすず書房、1989.1 所収)
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「人生の意味」においては、この現世での自分を俯瞰するような視点や価値が重要になってきますが、これは宗教的かつ超越的な体験、ユングの言う元型的領域の体験に関わるものです。それは生物学的に理解可能な、合理的で科学的な領域に必ずしも収まらず、多かれ少なかれ不合理な「オカルト」的領域に踏み込む話になってきてしまう。ユングはこの点を強く意識していたのではないでしょうか。
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図は、2019年後期スタディにてユング「心の本質についての理論的考察」を読み進めた際に、内容のまとめとして提示したものです。白い部分が意識領域、黒い部分が無意識領域で、ここでは本能の領域と精神の領域とに挟まれて、両者の間を揺れ動く意識のあり方が示されています。そもそも自我の本来的な役割は、この対立の中央にいて調整を行うことなので、対立の一方に偏れば精神的発達は止まる、とユングは述べています。
フロイトは①と②の葛藤で人間を考察しましたが、ユングは今回のテキストの中で、フロイトは②を②-1のみであると理解し、②-2の存在を見ていなかった、と指摘したことになります。ユングにとって重要なのは、むしろ②-1と②-2との葛藤であるわけです。