ユングとスピリチュアル

ユング心理学について。

ユング心理学研究会/ユングスタディ報告 11月2日【第9回】

2023-11-08 15:30:22 | スピリチュアル・精神世界
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ユングスタディ報告
11月2日【第9回】
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 引き続き「チベットの死者の書の心理学」を読み進めました。今回でこのテキストは終わりになります。
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 チェニイド・バルドの状態では、「思念の諸形式」が実在として立ち現われるとユングは述べます。ここでの「思念の諸形式」というのは、ユングの「元型」概念に重なるものと理解できるでしょう。元型的イメージの現れは強い情動を伴い、実際にその当人を突き動かしてしまうので、現実的な影響力を持つことになります。「バルド・テドル」では、恐ろしい神々が次々と現れるという形でこれを描き出しています。これは人格の崩壊にもなりかねない、たいへんな心理的危機です。
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 しかしながらこうした中にも、一定の秩序が現れてきます。神々がマンダラ状の円形に配列されていて、四つの色で分けられた十字形を成していることが見えてきます。『黄金の華の秘密』注解のスタディで見た通り、マンダラ象徴は、心理的危機に対応して意識の集中を維持する機能を持ち、自己実現に寄与していきます。
 このマンダラのヴィジョンをもってチェニイド・バルドの状態は終結を迎え、至高のチカイ・バルドの状態に到達することになります。カルマとその幻覚は消え、意識は形式や対象へのとらわれから解放され、時間を超越した原初状態に還ります。これは心理学的には、無意識の分析の最終段階、すなわち投影の引き戻しによる客体からの解放、心の様々な要素が統合された「自己」の実現に相当するでしょう。
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 「バルド・テドル」の心理学的注解は、これで一通り述べられたわけですが、最後にユングは改めて、「バルド・テドル」の本来の目的に立ち戻って話をします。つまり「バルド・テドル」は実際には、死者儀礼をするためのものだということです。
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 ユングによれば死者儀礼は、「死者たちのために何かしてやりたいという、生者の心理的要求にもとづいて」いて、それは「全くどうにもできないたましいの要求」です。西洋においては、こうした魂の要求を排除して合理化しようとしてきたために、死者への配慮はまだきわめて未発達で低い段階にある。「宗教的想像力が、死後の生の状態についてはなはだ誇張されたイメージをつくり出し、それを恐怖にみちた夢の状態や病的変質の状態として描いていることは、たましいにとっては、意外に生得的なことなのだ」とユングは述べます。
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 神々と霊の世界は、私の内なる集合的無意識に「すぎない」、これを逆に言えば、無意識とは私が外に経験する神々と霊の世界である、となる。私たちは死者儀礼を通して、あるいは神々や霊と呼ばれるものを通して、私たちの心の内なる集合的無意識を経験していることになります。
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 ユングは「バルド・テドル」について、その英訳の出版以来、「私の変わらぬ同伴者だった」と述べています。これは単なる修辞上の表現ではなく、実際にその通りなのだろうと思わせるところがあります。例えば、ユング自伝の「死後の生命」の章などを読むと、ユング個人の死生観への「バルド・テドル」の影響が強く感じられます。以下、引用です。
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 …ある魂がある段階の理解を達成したときは、それ以上、三次元の世界の生活をつづけることは無意味であることもあろう。つまり、より完全な理解によって、この世に再び生れようとする望みがつぶされてしまったので、その魂はもはや、この世に帰ってくる必要がないのである。そのときは、魂は三次元の世界から消え失せ、仏教徒のいう涅槃に到達する。しかし、まだ片づけねばならないカルマが残されているときは、魂は欲望へと逆戻りをし、再びこの世に帰る。多分、そのようにしながらも、何か完成すべきことが残されていることが解っているのであろう。
私の揚合は、私に生をもたらしたものは、根本的には、理解することに対する情熱的な欲求だったに違いない。というのは、これが私の性質のなかで最も強いものであるから、この飽くことを知らぬ、理解への欲求が意識を創造し、それによって、何が存在し、何が生じたかを知り、不可知なものからのかすかなヒントをつなぎ合わして、神話的な考えをつくりあげていたかのように思われる。…
  (『ユング自伝2』「死後の生命」、河合隼雄他訳、みすず書房、1972.6、p.167)
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 ここにはユング独自の視点もあります。仏教の文脈ではカルマは脱すべき悪しきものですが、上の引用では、カルマは人が完成するべき課題に関わるものです。私の「人生の意味」とは、いわば、私がこの世に生まれてくる理由であり、背負っているカルマであり、私が今生にて扱うべき課題であることになります。主体であるはずの自我は、ここでは何ものかに与えられた客体としての存在です。この課題を認識して実践することが、いわゆる「自己実現」なのかもしれません。
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 ユングは今回のテキストで、「個体の生ではなく、ことによると、人間性の十全性が増大してゆくための、多くの生を必要とする」とも述べています。十全性 Vollständigkeit, completeness とは、様々に対立する要素の全てを包み込んだ全体性のことであって、特定の方向づけで全てが統一され、方向づけに反する要素を全て排除している完全性(完璧性)Vollkommenheit, perfection とは異なります。
 個人の個性化過程、自己実現の過程は、人間性の十全性が増大していくプロセスの一部にすぎない。その完成のためには何度も生まれ変わり、それぞれの生において課題に向かっていく(個性化をして自己実現し、人格の十全性を達成する)必要がある。そしてその生の成果を「死」を通して、生を与えた「何ものか」に還元していくのかもしれない。「人間の生は、到達可能な最高の完成へ至るための乗り物なのである」とユングは述べます。
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 このあたりの話は、すでに科学としての心理学理論というよりも、ユング自身の思想であり信念と言うべきものです。とはいえ、このユングの思想や信念が、ユング心理学理論における個性化過程論や自己実現論、「人生の意味」や「死」の問題を扱うユングの心理療法を、水面下で支える構造になっていることが見て取れるでしょう。
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 ユングは、「たとえ真実は幻滅に終わろうとも、人はおそらく、バルドの生のヴィジョンに、いくらかの現実性を認めたいと感じざるをえないだろう」と述べますが、ユング自身の死生観についても、この言葉は同様に当てはまるように思われるところです。
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 図は、邦訳にある五智如来のマンダラ図(新装版p.71)に、私が着色をしたものです。チェニイド・バルドの状態が終結を迎え、至高のチカイ・バルドの状態に到達する際に現れる神々の配置になります。四つの智慧を表す四色の如来たちの中心に、それらの根源となる大日如来が位置しています。
 全く混沌としているかのような状況の下でも、こうしたマンダラ・シンボルが自然発生的に現れてきて、それが「救い」につながる。これが、スタディにて読み進めてきた「心理学と宗教」から「黄金の華の秘密」注解、今回の「チベットの死者の書の心理学」までを一貫するテーマです。