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糟谷評遺構見つかる 官衙跡か?

2014-08-02 22:55:38 | 記録
 2014年7月28日(月)

 後漢の光武帝から拝受したと言われている金印(漢委奴国王印)が江戸期に発見された志賀島の出土推定地には金印公園があり、金印は、1990年(平成2年)から福岡市博物館で保管・展示されているし、レプリカは、長崎市の孔子廟に展示されているが、今回発掘された国衙跡と推定されている糟谷評跡は、両施設を結ぶ地点にある。
 また、福岡県粕屋郡糟谷町は、日本鉱業史研究会にとっても重要な地域である。


「700年前後の政庁「糟屋評」跡か 福岡・粕屋で発掘 朝日新聞 馬郡昭彦2014年7月16日05時35分
http://www.asahi.com/articles/ASG7H4WTRG7HTIPE01Z.html

  福岡県粕屋町で、紀元700年前後の地方政庁の跡とみられる遺跡が見つかった。粕屋町教委によると、「糟屋評(かすやのこおり)」と呼ばれる政庁跡とみられ、律令国家形成期の地方支配を考えるうえで貴重な遺跡という。町教委は19日午前10時から現地説明会を開く。

 遺跡は、同町阿恵の九大農学部付属農場の移転確認調査で発掘。町教委が昨年7月から調査を始めていた。東西300メートル、南北100メートルの範囲で、政庁跡と倉庫跡がセットで見つかり、「糟屋官衙(かんが)遺跡群阿恵遺跡」と名付けられた。

 政庁跡は1辺55メートルほどのコの字形に並び、5棟の建物を確認。倉庫は高床式で6棟見つかり、税として集めた米などを収納する「正倉」とみられるという。

 糟屋評については、698年に鋳造されて京都・妙心寺に残る鐘(国宝)に「糟屋評造舂米連広國(つきしねのむらじひろくに)」の銘があることで知られている。「評造(こおりのみやつこ)」は、当時の地方政庁の長官を意味したとされる。(馬郡昭彦)」

 「「糟屋評」官衙跡か 九大農場内で遺構見つかる 読売新聞 2014年07月15日
 http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/culture/history/20140715-OYS1T50019.html

 粕屋町教育委員会は14日、同町阿恵の九州大農学部付属農場内で、飛鳥~奈良時代(700年前後)の役所跡とみられる遺跡を発見したと発表した。郡の前身「評こおり」の役所「官衙かんが」跡の可能性があるという。町教委によると、律令制度導入前の地方行政組織である評の官衙跡は久米官衙遺跡(松山市)など全国で数か所程度で、「律令国家形成過渡期の地方支配制度のあり方を知る上で重要な発見」としている。

 農場移転に伴い、町教委は昨年度から調査を実施。昨年8月に倉庫跡を、今年3月に政庁跡を発見した。政庁跡には、最長約42メートル、幅約4メートルの長舎型建物4棟が「コ」の字型に配置され、その内側に建物1棟があった。倉庫跡には、1辺4~8・5メートルほどの方形の建物6棟が並んでいた。

 政庁跡は、柱穴から出土した土器の様式などから、7世紀後半~8世紀前半と推定。建物の配列などから、粕屋郡の前身である「糟屋評かすやのこおり」の官衙の可能性があると判断した。倉庫群は税の穀物を収納した「正倉しょうそう」とみられる。正殿や正門は見つかっておらず、町教委は引き続き調査を行う。

 糟屋評を巡っては、長官にあたる「評造こおりのみやつこ」である「舂米連広国つきしねのむらじひろくに」の名が、妙心寺(京都市)の国宝の梵鐘(698年鋳造)に鋳造者として記されている。

 九州大の西谷正・名誉教授(東アジア考古学)は「舂米連広国が政務を執った可能性が考えられる。保存状態がよく、当時の地方統治拠点の実態解明に向けた手がかりとなる」と話している。

 19日午前10時から現地説明会が開かれる。問い合わせは町社会教育課(092・939・2984)へ。

2014年07月15日 Copyright © The Yomiuri Shimbun」


 2014年7月28日(月)役所と倉庫の遺構セットで見つかる 飛鳥時代、福岡県粕屋町秋田魁新聞11面 
   上記以外の情報は、
 「福岡県粕屋町教育委員会は、町内の糟谷官衙群阿恵遺跡跡で、遺跡7世紀後半の飛鳥時代の役所「糟谷評」とみられる建物跡が見つかったと発表した。税として集めた穀物を保存する倉庫群(穀物の重みを考慮し、床を多数の柱で支える構造になっている)とセットで出土しており、全国でも数例しかない発見だという。
 
 今回出土した役所も広国がいた時代の可能性が高い。評の役所跡の出土は、松山市の久米官衙遺跡群など数例に限られる。」

 ボランテイアガイドを務めている国指定史跡の秋田城跡は、733年(天平5)「出羽柵を高清水の岡に移す」と続日本紀に記されている官衙跡である。渤海使が初めて来訪した地であり、37回の来訪のうち4回が秋田である。接待施設は時代と共に南に移り、太宰府の鴻臚館が大勢の使節団の受け入れ施設になった。秋田城跡にある日本で唯一の水洗厠跡は、動物に寄生する寄生虫の卵が出土しているので渤海使が使用したと推察されているが、鴻臚館に水洗厠跡はなく、一時に千人規模の使節団の排泄する大量の糞尿の始末は、オマル式の便器に取ったものを四㍍の深い穴に投機していたのだと言う。
 糟谷評から、木簡や穀物の種など役者機能や生活の臭いがする出土品が発見されることを祈念している。