こんにちは・・(^-^)
散歩道で出会った花です。
今日は一時過ぎに住職が来て、月参りが行われました・・(^_-)-☆
お仏壇を拝みながら、自分の身体が弱っていることがわかると?
なんとなく近い将来に母らがいる世界に行くのかなあと思いました・・(^_-)-☆
そんなことを思いながら住職からの法話がりました・・(^_-)-☆
こんな歌を披露した後に・・
母死なすことを決めたるわがあたま気づけば母が撫でているなり・・川野里子
子供としてつらい思いで決めたんでしょうね。
先日に奈良県の佛教大講演会が開かれて、そこで買ってきた本(知恵と智慧)にそれに似た話が載っていたと紹介されました。
もう何年も前のことになるが、ある全国紙の投書欄に投稿された文章があった。
その人は50歳代の女性で、重い病で死の床にあったお母さんを弟さんと交代で看ていたんですね。
夜もお母さんの横にある簡易別途を置いて仮眠していたが、昼間は仕事を持つ身だからその疲れでつい眠り込んでしまったんですね。
ふと気づくとずり落ちた自分の毛布を掛け直してくれる人がいると気付くんですね。
誰かと思ったらその死の床にあるお母さんがベットから身を乗り出してそうしてくれていたというんですね。
ベットそれがわかってその女性は、眠ったふりを装いながら毛布の下で声を殺して泣いたというんですね。
死の床にあってさえ、我が子のことを思わずにはいられない、そんな母の心をその女性は生涯忘れることはないに違いありませんよね。
自分のことより先に、まず他社のことを思う心を仏教では、「慈悲」というんですね。
母の慈悲は人間の持つことのできる最も崇高な心だといえようが、ただその心は我が子にだけしか及ばないんですね。
これに対して、阿弥陀様の慈悲は、一切の衆生に働く広大無辺のものであって、それが浄土の救いの根本でもあるんですね。
仏説無量寿経に、
仏心といふは、大慈悲これなり。
無縁(現在的な使われ方は、縁者がいない人を指しますが?仏教では、平等にして差別なき仏の大慈悲)の慈をもってもろもろの衆生を摂したまふと・・
それが、人間と仏の違いだと教えられました。
人間は家族に対しては優しくなれても、衆生全体にまではその心が開けないんですね。
そんなことを教えられて、イオンに買い物に・・(^_-)-☆
私は、第二日曜日で、5%引きだと思って買い物に行きましたがそうじゃなかったが、犬の餌と私の食材を買ってきました・・(^_-)-☆
月曜日と思い、郵便局に行くと戸が閉まっていました?
そうなんですね?
今日は3連休だとそこで気づきました・・(^_-)-☆
頭の中では理解できていながらそんなことがわからず動く自分が少し怖くなりました?
そんな中家に帰るとマリア猫が家に入ってきたので、エサをやると少し食べてまた外に?
今朝は朝の散歩ができていないので、12000歩を目指しますね・・(^_-)-☆
明日もいい日でありますように・・(^-^)