●真宗大谷派
【歴代】
*大谷派における歴代の正式呼称に関する注意
歴代の留守職・法主・門主を「歴代門首」と呼称し、「大谷派御歴代」と総称するのが正式である。
親鸞のみ「宗祖」と呼称、「聖人」と敬称する。
宗祖親鸞以降の歴代は、「第○○代」と漢数字を用いて「代」で呼称し、「第○○世」と呼称しない。敬称は、「上人」を用いる。なお在職中は、「上人」の敬称を付さない。
例…「第八代 蓮如上人」・「第二十五代 大谷暢顯」
「※」は、大谷廟堂留守職・本願寺留守職のうち歴代に数えない者と、真宗大谷派門首代行である。
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【教如(きょうにょ、如)】
教如は、安土桃山時代から江戸時代にかけての浄土真宗の僧。 東本願寺第12代法主。
●誕生
永禄元年9月16日(1558年10月27日)、顕如の長男として誕生。永禄13年(1570年)2月、父・顕如のもと13歳で得度。
●石山合戦
元亀元年9月12日(1570年10月11日)、織田信長との間で石山合戦が始まる。父・顕如を助けて信長と徹底抗戦する。元亀2年(1571年)6月、朝倉義景の娘と婚約。
天正8年(1580年)3月、顕如は正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れ、石山本願寺から紀伊国鷺森(和歌山県和歌山市)へ退去し隠居する。しかし教如は徹底抗戦を主張する。そのため顕如は、教如を義絶する。義絶後も石山本願寺に籠城する(大坂拘様)。8月2日、近衛前久の説得に応じ、信長に石山本願寺を明け渡す。 その直後に、石山本願寺に火が放たれ灰燼と化す。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、信長が自害。6月23日、後陽成天皇は顕如に教如の赦免を提案。6月27日、顕如より義絶を赦免される。赦免後は、顕如と共に住し、寺務を幇助する。
●本願寺継承
文禄元年(1592年)11月24日、顕如の示寂にともない本願寺を継承する。この時、石山合戦で篭城した強硬派を側近に置き、顕如と共に鷺森に退去した穏健派は重用しなかった為、教団内に対立が起こる。
●退隠
文禄2年(1593年)閏9月12日、豊臣秀吉は教如を大坂に呼び、下記の十一か条を示した。穏健派が秀吉に働きかけたと考えられる。
1.大坂ニ居スワラレ候事。
2.信長様御一類ニハ大敵ニテ候事。
3.太閤様の御代ニテ、雑賀ヨリ貝塚ヘ召シ寄セラレ、貝塚ヨリ天満ヘ召シ出サレ、天満ヨリ七条ヘ遣シアゲラレ候事、御恩ト思シ召サレ候事。
4.当門跡不行儀のこと、先門跡時ヨリ連レント申上候事。
5.代ユヅリ状コレアル事、先代ヨリユヅリ状モコレアル由ノ事。
6.先門跡セツカンノ者メシ出サレ候事。
7.メシ出サレ候人ヨリモ、罷リイデ候者ドモ、不届キニ思シ候事。
8.当門主妻女ノ事。
9.ソコ心ヨリ、トドカザル心中ヲ引キ直シ、先門跡ノゴトク殊勝ニタシマミ申スベキ事。
10.右ノゴトクタシナミ候ハバ、十年家ヲモチ、十年メニ理門ヘアイ渡サルベキ事、是ハカタ手ウチノ仰付ラレ様ニテ候得共、新門跡コノウチ御目ヲカケラレ候間、カクノゴドク由ニ候。
11.心ノタシナミモナルマジキト存ゼラレ候ハバ、三千国無役ニ下サルベク候アイダ、御茶ノ湯トモダチナサレテ候テ、右メシイダシ候イタヅラモノ共メシツレ。御奉公候ヘトノ儀に候。
つまり、問題点(上記の1~8)を挙げ、10年後に弟の准如に本願寺法主を譲る旨の命が下される。この事を聞いた強硬派の坊官が、秀吉に異義を申し立てる。秀吉の怒りを買い「今すぐ退隠せよ」との命が下される。閏9月16日、准如に法主が継承する事が決定し、教如は退隠させられる。
●本願寺教団の東西分裂
慶長3年(1598年)8月18日、秀吉歿。
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで豊臣家から実権を奪取した徳川家康は、戦に協力した教如を法主に再任させようと考える。しかし三河一向一揆で窮地に陥れられた経緯があり、重臣の本多正信の「本願寺の表方(准如)と裏方(教如)との対立はこのままにしておき、徳川家は教如を支援して勢力を二分した方がよいのでは」との提案を採用し、本願寺の分立を企図する。
慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に家康より京都七条烏丸に四町四方の寺領が寄進され、七条堀川の本願寺の一角にある堂舎を、その地に移す。慶長8年(1603年)、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、東本願寺が分立する。
●入寂
慶長19年10月5日(1614年11月6日[3])、57歳で示寂。
●分立による本願寺の呼称
分立後も、昭和62年(1987年)までは、東西ともに「本願寺」が正式名称である。
分立当初は、教如の「本願寺」を、「信淨院本願寺」・「本願寺隠居」・「七条本願寺」・「信門」と称し、准如の「本願寺」を、「本願寺」・「六条門跡」・「本門」と称した。
のちに教如の「本願寺」は、准如が継承した「(七条堀川の)本願寺」の東に位置するため「東本願寺」と通称され、「(七条堀川の)本願寺」は、相対的に「西本願寺」と通称される。
発見された教如から母如春尼に宛てた「仮名消息」(手紙)=長浜市・長浜城歴史博物館(H25.9.27)
☆戦国時代に大坂(石山)本願寺が織田信長と10年にわたり対決した石山合戦(1570~1580年)で、最後まで同寺に籠城を続けた教如(1558~1614年)が、寺から退去する直前に母の如春尼(にょしゅんに)へ宛てた直筆の手紙が見つかり、26日、長浜城歴史博物館(長浜市)が発表した。当事者が石山合戦の様子を記した資料は初めて。教如は信長との徹底抗戦を主張した強硬派とみられてきたが、手紙には不安な心境が吐露されており、教如の新たな人物像を伝える。また教如の退去に天皇が関与したことを示す記述も初めて確認された。
手紙は長浜市内の個人宅で見つかった。縦12センチ、横82センチの巻紙で、半分に切って2段に分け、掛け軸に表装されていた。8月中旬に、所有者の依頼で同館が調査していた。
流麗な仮名書きの字体から、教如の直筆と断定。宛名の「御かさま」が如春尼を指すという。
文中に「かねかねかくこ(覚悟)にて」「たこくのすまひにて、こころにまかせぬ事(中略)めいわくにそんし候」とあり、退去を覚悟しながらも、慣れない他国へ赴くに際し弱気な心境を記したものと見ている。年号や日付はないが、西本願寺に残る如春尼の侍女に宛てた別の手紙がこの手紙に言及しており、二つの手紙がセットで、1580(天正8)年8月2日の大坂本願寺退去直前に出されたと判断した。
また「かミよりそうふん(奏聞)申しかけ(中略)大事にきわまり候」とあり、「奏聞」は天皇に上奏する場合にのみ使われる言葉で、公卿の上奏で退去が決まったという意味と解釈。教如が信長と和睦し退去する過程は不明だったが、朝廷の関与があったことを示す初資料とした。
手紙は同館で28日から10月7日まで特別公開される。有料。
■教如 本願寺第11世顕如の長男。石山合戦では、1580年4月に顕如が天皇の勅命で寺を退去した後も籠城を続け、父から一時義絶された。その際の意見の相違が、後の東西本願寺分派につながったとされる。顕如の死後に本願寺門主となるが、豊臣秀吉の命令で引退。関ケ原合戦後、徳川家康から寄進を受けて東本願寺を創建した。開祖親鸞から数えて東本願寺第12世。