おはようございます。
精神的に、もとへ戻りつつあります。
つい先ほど…
午前8時50分頃より、「ジョロ」で花に水をね。ゆっくりと約30分間強もかけました。
↓
本来ならば?実家の外に突き出している小さな蛇口。急だったため、その鍵を預かっておりません。
↓
2日前、両親は田舎へ。
昨日、次女の姉夫婦が実家に泊まる(預かっていた実家の鍵を渡す)。
今朝。次女夫婦と妹が、田舎へ。
↓
継母サンより、朝夕の新聞や手紙etc.の押し込みを頼まれています。
(既成の郵便受けはなく、直接、実家内へ投函できるようになっているため)
少しでも新聞が、外へ出ていると「留守」だとわかる。防犯上、危ない!
2日前より開始してましたが…
今夕から、本格的にパトロールをね。
↓
話を戻します。
私のアパートは2階だが?1階の小さな玄関口に、洗濯機が置けるスペースあり。
つまり、小さな蛇口が付いてるヨッ♪
↓
アパート1階で水を汲み、実家へ。何往復しただろうか?
終了間際…
実家の向かいの家。
小さい頃から顔馴染みデス。
えっ?
【近所の方】
『うちも花壇が多いでしょう?ついでに、水をあげることも簡単(ジョロではなく、ホースでね)。お母様から頼まれてますヨッ?だから、気にしないでね。それよりも、2階ベランダの植木鉢に水をあげてね?』
【私】
『ありがとうございます♪ベランダ?私は、(実家の)鍵を持ってません』
【近所の方】
『あら、まぁ~↑仕方ないわね』
↓
継母サンは?私の体(腰や背骨の痛み)を考え、仲が良い向かいの方へお願いをしていたのかぁ♪
トニカーク!
向かいの家の方へ。
ありがとうm(__)m!
さてっと…
2日前にカキコした件。
私にとっての、思い出を綴ります。
(供養となりますように)
写真学生、スタジオマン。
横浜の大倉山から、東京の祐天寺へ引っ越し。
週末の日曜日。寝るためだけに?アパートへ戻る(平日はスタジオに泊まり込み)。
↓
夕方、少し目覚めると…
「駒沢公園」まで、片道約40分だったのカナ?よく歩きました。
↓
また、三軒茶屋にある名画座へ出かけるため!裏道を歩いたなぁ。
その二十歳の時。
継母サンの妹サンが?裏道の途中にある病院で、看護師として働いていたそうです。
1度もお会いをしたコトが無かったケド、いつも立ち止まり、幾度も幾度も、その大きな病院を眺めました。
血の繋がりはないが…
親戚が働いている。
東京の大都会に、親戚が居る。ただ、それだけで安堵したのを覚えています。
もう、1年半前になるのかぁ。
2009年、クリスマス。
かかりつけ医院より紹介状を持ち、大阪市福島区にある大病院へ。
私と、付き添いは継母サンでした。
腫瘍の説明・手術に関しての説明があるため、家族の同伴が不可欠。
↓
診察室前のロビーで、寂しく座っていた時!継母サンより、初めて妹サンの症状をお聞きしました。
(詳しい症状は秘密)
↓
世話が必要。
よって、継母サンの兄弟が多い大阪市内の大病院へ転院。
↓
2010年、「GW」前…
転移した腫瘍の放射線治療が無理。ケアハウスでの余生を!主治医からすすめられたそうです。
(継母サンたち、身内へ。本人は知りません)
↓
だが!
元看護師。薬や治療法等で、全てを把握してたそうです。
【妹サン】
『回復したら?私の奢りで、ハワイ旅行をプレゼントします。○○家は?飛行機のこの席。□□家は?この席ね』
紙に座席を描いたと、継母サンからお聞きしました。
私の次女夫婦は?何度もお見舞いに出かけていた。
私は、私自身の入院待ち状態。
私と一切面識がないのに?
『□□家の△△ちゃん(私のコト)は、この席』
↓
その話を、お聞きし…
私はアパートへ戻り、泣きました。
(その気持ちが、嬉しかった)
だが!
放射線治療が無い事実。痛み止めや点滴等で、ハワイへは絶対に行けないコトを自覚していたはず。
それでも、なお!
身内等を思いやる優しい気持ち。
妹サンの気持ちを考えると…。
私は、とても切なくなりました。
↓
余命1ヵ月宣告から、約1年。
最期は、やすらかな表情だったそうです。
ここに、お悔やみを申し上げると共に、継母サンの現在の心情を察すれば!私の心は破裂しそうです。
継母サンの妹サンへ。
心、やすらかに。
合掌。
………
大阪市内…
現在、晴れております。
明日は、かかりつけ医院へ。
では、また。
与えられた命。
どんなに辛くとも、命を粗末にせず、私は生きていきます。
それが、親孝行の1つでもあると、信じております。
精神的に、もとへ戻りつつあります。
つい先ほど…
午前8時50分頃より、「ジョロ」で花に水をね。ゆっくりと約30分間強もかけました。
↓
本来ならば?実家の外に突き出している小さな蛇口。急だったため、その鍵を預かっておりません。
↓
2日前、両親は田舎へ。
昨日、次女の姉夫婦が実家に泊まる(預かっていた実家の鍵を渡す)。
今朝。次女夫婦と妹が、田舎へ。
↓
継母サンより、朝夕の新聞や手紙etc.の押し込みを頼まれています。
(既成の郵便受けはなく、直接、実家内へ投函できるようになっているため)
少しでも新聞が、外へ出ていると「留守」だとわかる。防犯上、危ない!
2日前より開始してましたが…
今夕から、本格的にパトロールをね。
↓
話を戻します。
私のアパートは2階だが?1階の小さな玄関口に、洗濯機が置けるスペースあり。
つまり、小さな蛇口が付いてるヨッ♪
↓
アパート1階で水を汲み、実家へ。何往復しただろうか?
終了間際…
実家の向かいの家。
小さい頃から顔馴染みデス。
えっ?
【近所の方】
『うちも花壇が多いでしょう?ついでに、水をあげることも簡単(ジョロではなく、ホースでね)。お母様から頼まれてますヨッ?だから、気にしないでね。それよりも、2階ベランダの植木鉢に水をあげてね?』
【私】
『ありがとうございます♪ベランダ?私は、(実家の)鍵を持ってません』
【近所の方】
『あら、まぁ~↑仕方ないわね』
↓
継母サンは?私の体(腰や背骨の痛み)を考え、仲が良い向かいの方へお願いをしていたのかぁ♪
トニカーク!
向かいの家の方へ。
ありがとうm(__)m!
さてっと…
2日前にカキコした件。
私にとっての、思い出を綴ります。
(供養となりますように)
写真学生、スタジオマン。
横浜の大倉山から、東京の祐天寺へ引っ越し。
週末の日曜日。寝るためだけに?アパートへ戻る(平日はスタジオに泊まり込み)。
↓
夕方、少し目覚めると…
「駒沢公園」まで、片道約40分だったのカナ?よく歩きました。
↓
また、三軒茶屋にある名画座へ出かけるため!裏道を歩いたなぁ。
その二十歳の時。
継母サンの妹サンが?裏道の途中にある病院で、看護師として働いていたそうです。
1度もお会いをしたコトが無かったケド、いつも立ち止まり、幾度も幾度も、その大きな病院を眺めました。
血の繋がりはないが…
親戚が働いている。
東京の大都会に、親戚が居る。ただ、それだけで安堵したのを覚えています。
もう、1年半前になるのかぁ。
2009年、クリスマス。
かかりつけ医院より紹介状を持ち、大阪市福島区にある大病院へ。
私と、付き添いは継母サンでした。
腫瘍の説明・手術に関しての説明があるため、家族の同伴が不可欠。
↓
診察室前のロビーで、寂しく座っていた時!継母サンより、初めて妹サンの症状をお聞きしました。
(詳しい症状は秘密)
↓
世話が必要。
よって、継母サンの兄弟が多い大阪市内の大病院へ転院。
↓
2010年、「GW」前…
転移した腫瘍の放射線治療が無理。ケアハウスでの余生を!主治医からすすめられたそうです。
(継母サンたち、身内へ。本人は知りません)
↓
だが!
元看護師。薬や治療法等で、全てを把握してたそうです。
【妹サン】
『回復したら?私の奢りで、ハワイ旅行をプレゼントします。○○家は?飛行機のこの席。□□家は?この席ね』
紙に座席を描いたと、継母サンからお聞きしました。
私の次女夫婦は?何度もお見舞いに出かけていた。
私は、私自身の入院待ち状態。
私と一切面識がないのに?
『□□家の△△ちゃん(私のコト)は、この席』
↓
その話を、お聞きし…
私はアパートへ戻り、泣きました。
(その気持ちが、嬉しかった)
だが!
放射線治療が無い事実。痛み止めや点滴等で、ハワイへは絶対に行けないコトを自覚していたはず。
それでも、なお!
身内等を思いやる優しい気持ち。
妹サンの気持ちを考えると…。
私は、とても切なくなりました。
↓
余命1ヵ月宣告から、約1年。
最期は、やすらかな表情だったそうです。
ここに、お悔やみを申し上げると共に、継母サンの現在の心情を察すれば!私の心は破裂しそうです。
継母サンの妹サンへ。
心、やすらかに。
合掌。
………
大阪市内…
現在、晴れております。
明日は、かかりつけ医院へ。
では、また。
与えられた命。
どんなに辛くとも、命を粗末にせず、私は生きていきます。
それが、親孝行の1つでもあると、信じております。