江戸川教育文化センター

「教育」を中心に社会・政治・文化等の問題を研究実践するとともに、センター内外の人々と広く自由に交流するひろば

東日本大震災から10年ー東北宮城岩手・学習交流の旅(1)ー

2021-12-04 | 随想
2011年3月の東日本大震災から10年半が過ぎた。
日退教主催で宮城退教・岩手退教の協力で「被災を学び・復興を学ぶ」学習交流の旅を実施し私も参加しました。
その報告記事です。
全国から集まった25名は仙台駅に集合し、バスの中での開催となった。
 

大川小学校の津波被害とは

宮城県退教酒井氏より大川小学校の津波被害の概要説明があった。
教師たちは何故裏山避難か、川沿いの高台かで揉めていたのか。
裏山には低学年でも1~2分で行けるのに。

大川小学校は津波避難のマニュアルを作成していなかった。
他県の学校のマニュアルを名前だけ変えて提出していた。
そこには津波の時「近隣の公園・空き地」に避難とあり、学校の周りには公園空き地は無く「裏山に避難」など書かれていなかった。

校長は権力的で学校と地域住民で行っていた催し物を全て中止にしていた。
県は2年で人事異動を行い校長に意見するものは居なく、校長不在の教師達は的確な判断能力を欠き、
物言わぬ教師集団が子ども達を死に追いやったと語ってくれた。

 
震災遺構大川小学校・大川震災伝承館の視察

児童74名教職員10名が津波で犠牲になった大川小学校の校舎が震災遺構として整備された。
私が2018年に訪れた時は、遺族の佐藤さんのガイドでその惨状をきいた。 
 
助かる筈の命が何故助からなかったのか、地震発生から51分も児童は校庭に待機させられた。
校長不在の中、教頭・教務主任・教職員・地域住民らは裏山に避難するか校庭に留まるか激論を繰り広げていたと云う。

子ども達は慣れた裏山に逃げようと訴え、事実裏山に逃げた子どもを引きずり降ろして校庭に戻した教員もいたと云う。

裏山はシイタケ栽培にも使われ、校庭から1分もあれば避難出来る。
しかし強硬に反対した住民もいた。 
「山が崩れたらどうする、誰が責任を取るのか」と。

津波警報と高台避難の広報車が呼び掛けているにも関わらず、教頭らは決断が出来ないまま時間が経ち、
最終的に目指したのは北上川堤防の高台だったが、その1分後津波が襲い掛かってきた。

裏山に打ち上げられ救助された児童は4名のみ。
だが裏山に逃げようと言っていた教務主任は、衣服が何一つ濡れていないまま助かっていたと云う。

その裏山に上がってみた。
少し急な所はあるものの低学年でも楽に上がれる。
校庭や校舎の全景が一望でき、北上川もはっきりとみえる。
教務主任はここから津波を確認しに行って助かったと思われるが・・・。

校庭脇の野外ステージには「未来を拓く」と、生き生きと描かれた児童の壁画が見る人に訴えかける。
「もっと生きていて欲しかった」
「かけがえのない人生が待っていたのに」 
たった一つの小さな命が奪われてしまった無念の想いが伝わってくる。



資料
・石巻市には小中学校22校あり、一校で74人もの児童が犠牲になったのは大川小学校だけ。
同じ北上川沿いの学校は高台や山に避難し犠牲者は殆んどいなかった。
県教委や市教委は助かった教務主任をたった一度しか遺族の前に出さず、真実を語るべき生き証人を隠し続けてきた。

・遺族は助かる命を守る義務を果たさなかったとして、2014年23億円の国家賠償請求を起こした。
2016年に仙台地裁は「教職員らは高台に避難させる義務を怠った」と、2018年に仙台高裁は「学校の防災対策が不十分」として、
石巻市と宮城県に14億円の支払いを命じる判決をした。
市と県はこれを不服として最高裁に上告したが棄却され、2019年最高裁は市と県に14億3600万円の賠償を命じた。


 


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