江戸川教育文化センター

「教育」を中心に社会・政治・文化等の問題を研究実践するとともに、センター内外の人々と広く自由に交流するひろば

「ゆとり教育」とは何だったのか⁉︎(2)

2019-12-25 | 随想
前回、前川喜平氏の新聞コラムを紹介したが、「ゆとり教育」を推進すべく文部省(現文科省)のスポークスマン的役割を果たしたのが当時文部省のキャリア官僚だった寺脇研氏だった。

小学校低学年の社会科が廃止され生活科が新設された頃、ある雑誌で当時文部省教科調査官だった中野重人氏と対談していたのを読んだ記憶がある。

知識注入型から思考力育成型とも言える方向へ転換する考え方には大きく頷くものがあったが、それは授業の在り方次第でどうにでもなると考えていたものだ。

例えば小学校低学年の社会科で、学校で働く人々(給食・学童擁護等)や郵便の仕組みや仕事を扱っても、課題を持って見学や話し合い学習が可能だったが、生活科という子どもを稚拙さに留めるような教科にされたことは今でも納得できない。


今でこそ「ゆとり教育」をある意味で肯定する私だが、当時は文部省が出してくるものには基本的に反対する論理と実践を追求していた。


「ゆとり教育」を生み出した広大で豊かな発想だったものが、中教審・臨教審・教課審を経ることで新たな理念が公に設けられる結果となったわけである。
文部省自らも言うようにただ授業時間と教育内容を減らすだけでなく、その中でどんな豊かな中身を構成して充実させていくかが問われていた。
それは、反文部省(文科省)路線を標榜する私たちにも同様に言えることであった。


1989年の指導要領改定では、先に揚げた生活科の新設と共に高校社会科が解体されたのである。
当局は社会科解体とは言わず、再編成と表現していたが、戦後教育が民主主義を広く国民に行き渡らせるために社会科が創設されたことを考えるならば、この指導要領で戦後民主主義教育の旗手とも言うべき社会科を葬ろうとしたことは確かだ。


「ゆとり教育」を推進していた寺脇氏は当時どのような考えであったか分からないが、残念ながら私は社会科解体を批判していた文部官僚を知らない。
(私の不勉強もあるので、この辺りの経過をご存知の方にご教示願えれば幸いである。)


<すばる>

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「ゆとり教育」とは何だった... | トップ | 映画「家族を想うとき」と金... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

随想」カテゴリの最新記事