【共同幻想論】
吉本隆明の「共同幻想論」は、全共闘世代の人たちに、熱心に読まれました。全共闘とは、学生運動のことです。共同幻想論には、幻想としての国家の成立過程が、描かれています。吉本隆明は、マルクスやフロイトの影響を受けており、その二つの思想によって、国家と個人の関係を再構築しようとしました。 共同幻想論では、人間関係を、3種類に分類しています。「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」の3つです。その3つは、相互に関係性がありました。
【個人幻想と対幻想】
個人幻想「自己幻想」とは、自分一人だけで見る幻想のことです。それは、個人の内面の出来事なので、外部に表現されない限りは、他者に影響を及ぼすことがありません。そのため、個人幻想は、何者にも制約されず自由です。例えば、文学などの芸術は、個人幻想に当たります。それらは、日常的に起こる個人の内面の現象です。宗教も、個人の内側に収まる限りは、個人幻想になります。
対幻想「ついげんそう」とは、個人幻想と共同幻想の中間的な概念で、一対一の二人で見る幻想のことです。例えば「兄弟姉妹」「男女関係」「家族」などのプライベートな関係のことを言います。それは、擬似的な性関係とされますが、必ずしも肉体的な性交渉を伴いません。対幻想は、フロイトのリビドー論の影響を受けた概念だとされています。リビドーとは、本能的な欲望のことです。
【共同幻想】
対幻想が、空間的に拡大されれば、やがて「共同体」になります。吉本隆明は、その共同体がさらに拡大して、国家が誕生したと考えました。家族という対幻想は、国家成立の起源とされています。例えば「死」「恐れ」「祭儀」などには、共同体を一つにつなぐ働きがありました。同じものを信じることによって、お互いに「共感」することが出来たからです。共同体を維持するには、人々が、ある「共通認識」を共有することが必要でした。人々が共同体に抱く幻想を「共同幻想」と言います。共同幻想は、3人から成立するもので、例えるなら、マルクスの上部構造のようなものです。
吉本隆明は、国家の幻想性に注目し、対幻想が共同幻想化したときに国家が発生したのだとしました。国家とは、集団で見る共同幻想のことです。人々の集合的な想像力が、国家というフィクションを創造しました。「風俗」「宗教」「法律」などの共同体のシステムも共同幻想です。それが守られたり、流布されたり、慣習となっているところでは、どこでも共同幻想が存在しています。しかし、近年の個人主義の発達が、その共同幻想を解体させました。
【共同幻想と個人】
人間と人間の関係が、自分の考え方を束縛しています。他人との間で形成される価値観は、そもそも共同幻想にすぎません。人間とは、同調圧力などによって、思考が停止させられてしまうものです。強い共同幻想の前では、個人の考え方も固定化させられてしまいます。しかし、人間は、共同幻想なしでは生きられません。今まで、それを基準にして生きてきたからです。本来、共同幻想は、人間のために作られました。しかし、それが逆に人間を苦しめることもあります。