なくもの哲学と歴史ブログ

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吉本隆明の「共同幻想論」

2023-09-24 21:54:00 | 日本の思想

【共同幻想論】
 吉本隆明の「共同幻想論」は、全共闘世代の人たちに、熱心に読まれました。全共闘とは、学生運動のことです。共同幻想論には、幻想としての国家の成立過程が、描かれています。吉本隆明は、マルクスやフロイトの影響を受けており、その二つの思想によって、国家と個人の関係を再構築しようとしました。 共同幻想論では、人間関係を、3種類に分類しています。「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」の3つです。その3つは、相互に関係性がありました。

【個人幻想と対幻想】
 個人幻想「自己幻想」とは、自分一人だけで見る幻想のことです。それは、個人の内面の出来事なので、外部に表現されない限りは、他者に影響を及ぼすことがありません。そのため、個人幻想は、何者にも制約されず自由です。例えば、文学などの芸術は、個人幻想に当たります。それらは、日常的に起こる個人の内面の現象です。宗教も、個人の内側に収まる限りは、個人幻想になります。 

 対幻想「ついげんそう」とは、個人幻想と共同幻想の中間的な概念で、一対一の二人で見る幻想のことです。例えば「兄弟姉妹」「男女関係」「家族」などのプライベートな関係のことを言います。それは、擬似的な性関係とされますが、必ずしも肉体的な性交渉を伴いません。対幻想は、フロイトのリビドー論の影響を受けた概念だとされています。リビドーとは、本能的な欲望のことです。

【共同幻想】
 対幻想が、空間的に拡大されれば、やがて「共同体」になります。吉本隆明は、その共同体がさらに拡大して、国家が誕生したと考えました。家族という対幻想は、国家成立の起源とされています。例えば「死」「恐れ」「祭儀」などには、共同体を一つにつなぐ働きがありました。同じものを信じることによって、お互いに「共感」することが出来たからです。共同体を維持するには、人々が、ある「共通認識」を共有することが必要でした。人々が共同体に抱く幻想を「共同幻想」と言います。共同幻想は、3人から成立するもので、例えるなら、マルクスの上部構造のようなものです。

 吉本隆明は、国家の幻想性に注目し、対幻想が共同幻想化したときに国家が発生したのだとしました。国家とは、集団で見る共同幻想のことです。人々の集合的な想像力が、国家というフィクションを創造しました。「風俗」「宗教」「法律」などの共同体のシステムも共同幻想です。それが守られたり、流布されたり、慣習となっているところでは、どこでも共同幻想が存在しています。しかし、近年の個人主義の発達が、その共同幻想を解体させました。

【共同幻想と個人】 

 人間と人間の関係が、自分の考え方を束縛しています。他人との間で形成される価値観は、そもそも共同幻想にすぎません。人間とは、同調圧力などによって、思考が停止させられてしまうものです。強い共同幻想の前では、個人の考え方も固定化させられてしまいます。しかし、人間は、共同幻想なしでは生きられません。今まで、それを基準にして生きてきたからです。本来、共同幻想は、人間のために作られました。しかし、それが逆に人間を苦しめることもあります。



福沢諭吉の「学問のすすめ」

2023-09-23 22:13:00 | 日本の思想

【実学】 

 福沢諭吉が、影響を受けたのが、イギリスの「功利主義」です。功利主義から、これからの日本人は、西洋の実用的な学問を学ぶべきだとしました。実用的とは、実生活に役立つもののことです。そうした学問を「実学」と言います。実学「じつがく」とは、合理的な近代諸科学の事です。それに対して、儒教などの東洋の学問を「虚学」だとしました。儒教は、上下関係を守り、伝統的なものを重んじます。そのため、社会が発展する必要性がありませんでした。今まで通り、既存の慣習に従えば良いからです。しかし、現実の世界は、日々発展しています。福沢諭吉は、それに合わせて、学問も進歩すべきだと考えました。 

 【脱亜入欧】

 当時は、西洋列強がアジアに進出していた時代です。福沢諭吉は、そのことに危機感を覚えていました。そこで目標としたのが、西洋の近代的な文明です。アジア諸国との関係を断ち、近代的な西洋文明の仲間入りをしようとしました。それを脱亜入欧「だつあにゅうおう」と言います。福沢諭吉は、主著の「文明論概略」の中で、アジア的な思想や伝統を批判しました。脱亜入欧の目的は、欧米列強の侵略から日本の独立を守ることです。そのためには「富国強兵」が必要不可欠でした。富国強兵とは、国を富ませ、軍事力を強化することです。そうした国を作るために必要なのが「国家権力」と「一般市民」の調和でした。それを「官民調和」と言います。 

 【独立自尊】 

 それまでの 日本人は、国事に関与しようとせず、政府に頼り切っていました。福沢諭吉は、そうした現状を「日本には、政府ありて国民なし」と表現しています。日本人がそのようになったのは、江戸時代までは、幕府に政治を任せていれば良かったからです。福沢諭吉は、国を改善するには、まず人々の心を変え、その上で、政府を改革していくべきだと考えました。

 そして、一般市民も「自主独立」の精神を持つべきだとしています。自主独立とは、他人や政府に依存しないで、何事も自分の判断と責任のもとで行うことです。福沢諭吉は、自主独立するだけではなく、人間としての品格も忘れるべきではないとしました。そのことを「独立自尊」と言います。「学問のすすめ」にも「一身独立して、一国独立す」と書かれています。福沢諭吉にとって「一身独立」と「一国独立」は不可分のものでした。学問のすすめは、一般市民に向けて書かれた啓蒙的な学問書です。当時、約20万部というベストセラーになりました。 

【天賦人権論】 

 福沢諭吉は、中津藩の下級武士の生まれでした。当時の下級武士は、身分が低くかったとされています。そのため、子供の頃は不遇でした。そうした境遇から出たのが「門閥制度は、親の仇でござる」という言葉です。そのため、福沢諭吉は、封建的身分制度をなくそうとしました。学問のすすめの冒頭にも「天は人の上に人を作らず、人の下に人を造らずと云り」と書かれています。これは、人間が本質的に平等で、生まれながらに「自由」や「幸福追求の権利」を持っているという意味です。それを「天賦人権論」と言います。天賦人権論「てんぷ」は「自由民権運動」の理論的根拠になりました。近代的な国家とは、自由で平等な一般市民の同意によって設立された政府のことです。明治政府も、建前上、そのような国家でなくてはいけませんでした。