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楚漢戦争、韓信について

2024-10-06 20:04:00 | 世界史

【韓信】
 韓信は、漢の「三傑」の一人に数えられています。三傑とは、劉邦の漢建国に貢献した三人の立役者のことです。韓信は、楚の平民の出身で、貧しかったのに働かずに人の世話になっていました。それなのに体格だけは良かったとされています。韓信は、貧しいのに、長剣をぶら下げていたので、それを肉屋にからかわれ、自分の股をくぐるか、その剣で切りつけてみるかと挑発されました。しかし、出世をするという目標があったので、人殺しにならないように、その肉屋の股をくぐったとされています。そのことで、韓信には、臆病者という評判がつきました。このエピソードを「韓信の股潜り」や「韓信匍匐」と言います。

【項羽と劉邦】
 韓信は、秦に対する反乱「陳勝呉広の乱」に参加しました。陳勝呉広の乱は、中国最初の農民反乱だとされています。韓信は、はじめ項羽の部下として、参戦しました。当時、項羽は、反秦勢力の筆頭だったとされています。韓信は、項羽に献策を続けましたが、採用されることはありませんでした。なぜなら、項羽には、最も信頼する軍師「范増」がいたからです。この頃から、范増は、韓信を警戒していたとされています。

 韓信は、項羽を身限り、劉邦軍に加わることにしました。ただし、劉邦軍では、一兵卒からだったとされています。韓信が、ある罪で処刑されそうになった時、それを助けてくれたのが夏侯嬰という人物でした。ちなみに、韓信は、自分こそが劉邦の天下取りに必要な人物だと思っていたとされています。そのため、夏侯嬰に自分を殺せば、漢の損失なるだろうと言いました。夏侯嬰は、その話に興味を持ったとされています。その後、韓信は、劉邦の側近である「蕭何」からも、その才能を認められました。この蕭何も三傑の1人とされています。韓信は、劉邦から、接待役という役目を与えられましたが、それが不満で逃亡しました。それを追いかけて、連れ戻したのが蕭何だとされています。その時、蕭何は、韓信が「国士無双」だから、わざわざ追いかけたと説明しました。国士無双とは、比べられる者がないほど優れた者という意味です。韓信は、夏侯嬰と蕭何の推薦によって、大将軍に任命されました。大将軍という官職は、上将軍とも言います。

【知将】
 韓信は、特に戦術にすぐれていたとされています。趙との決戦では「背水の陣」という戦術を使いました。背水の陣とは、退却できないようにして必死に戦うことです。趙軍側の軍師は「李左車」という人物でした。李左車は、かつて秦軍を苦しめた趙の名将「李牧」の孫だとされています。韓信は、李左車を生け取りにし、敬意を払って、教えを乞いました。その時、李左車は「敗軍の将は語らず」と言ったとされています。

 項羽は、秦を滅ぼしましたが、今度は、劉邦と対立することになりました。その戦いを楚漢戦争と言います。韓信は、劉邦の別働部隊として「趙」「魏」「燕」「斉」などの諸国を平定しました。その中で大国だったのが斉です。韓信は、治安維持のため、斉の仮の王になりたいと言いました。しかし、劉邦は、それに怒ったとされています。それを軍師の張良と陳平が諌めました。なぜなら、韓信を敵に回すと不利になるからです。そこで劉邦は、仮ではなく真の王になれと言いました。その結果、韓信が、第三勢力のような形になったとされています。項羽は、その韓信に和議を持ちかけました。しかし、劉邦に恩義があるとして、それを断たとされています。韓信は「垓下の戦い」で、項羽を追い詰め、自害に追い込みました。この垓下の戦いから生まれたのが四面楚歌という四字熟語です。

【粛正】
 劉邦が、中国を統一して、漢王朝を開いた時、韓信は、斉ではなく、故郷の楚の王に任じられました。帰郷した韓信は、お世話になった人たちに恩返しをしたとされています。韓信が、謀反人となった旧友を匿った時のことです。その罰として、精鋭を取り上げられてしまいました。その上、身柄を拘束されたので、このままでは、自分の身も危ういと思ったとされています。韓信は、劉邦が首都「長安」を留守にした瞬間を見計らって、皇后「呂雉」と皇太子を監禁しようとしました。しかし、韓信に恨みを持った人間が、それを呂雉に密告したので、計画が事前にバレてしまいます。呂雉は、そのことを蕭何に相談しました。ちなみに、韓信は、蕭何だけは信用していたとされています。蕭何は、それを利用して、韓信をうまく誘い出し捕えました。韓信は、その一族諸共、呂雉に処刑されたとされています。