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西楚覇王、項羽

2024-10-11 19:28:00 | 世界史

【項羽】
 項羽は「西楚の覇王」と呼ばれています。その一族は、楚の将軍職を務める家柄でした。楚は、春秋戦国時代において、秦に次ぐ大国だったとされています。世間では、秦を滅ぼすとしたら、楚の人だと言われていました。秦を苦しめた楚の将軍「項燕」は、項羽の祖父だとされています。項羽は、父親がいなかったので、叔父の項梁によって養育されました。項梁から、武術や学問を習いましたが、あまり熱心ではなかったとされています。なぜなら、文字などは、自分の名前をかければよく、剣では、1人しか倒せないと思ったからです。そこで、万人を相手にする方法として、兵法を習いたいと言いました。

 項羽には、楚への強い愛国心があったとされています。そのため、秦に対する復讐心が、人一倍ありました。始皇帝が、巡行してきた時、それにとって代わってやると言ったとされています。巡行とは、皇帝が、全国を巡回することです。

【性格と戦術】
 項羽は、直情的で、短気でしたが、謙虚な面もありました。例えば、叔父の項伯や、軍師の范増の意見をよく聞いたからです。項羽は、正義感が強かったので、若者には人気があったとされています。ただし、プライドが高く傲慢でした。そのため、人望はなかったとされています。また、部下の扱いも不公正だったので、不満を持つものも多くいました。項羽は、体が大きく、力が強かったとされています。戦場では、一騎当千の活躍で、常に敵の数が多い状況でも勝ってきました。項羽は、戦で一度も敗れたことがなかったとされています。そのため、中国史上、最強の武将と呼ばれました。項羽は、野戦が得意で、戦い方は、あまり策に頼らず、勢に任せたものだったとされています。戦術にも計画性がなく、長期戦は苦手でした。

【鴻門の会】
 項羽は、秦に対する反乱「陳勝呉広の乱」に参加しました。陳勝呉広の乱とは、中国最初の農民反乱のことです。項梁には、人望があったので、反秦勢力が集まってきました。それが、一大勢力になったとされています。項梁は、楚の王族を探し出し「懐王」として立てました。当時の秦の正規兵は、強かったとされています。そのため、項梁は、秦の名将「章邯」との戦いで戦死しました。その後も、項羽は、楚の将軍として戦います。懐王は、最初に関中に入った者を関中王にすると言いました。関中とは、秦の首都「咸陽」一帯のことです。1番先に関中に入ったのは劉邦でした。その劉邦は、関中で掠奪を行わなかったので、民衆には人気があったとされています。しかし、項羽は、劉邦に怒りました。なぜなら、秦の主力と戦っていたのは、項羽の方であり、関中王になるのは自分だと思っていたからです。

 劉邦の軍師「張良」と、項羽の叔父項伯は、義兄弟だったので、劉邦は、その項伯を通じ、項羽に謝罪することにしました。それを「鴻門の会」と言います。項羽の軍師「范増」は、剣舞の席で、劉邦を殺そうとしました。しかし、劉邦の家臣「樊噲」が乱入してきたので、劉邦は逃れることが出来たとされています。

 咸陽に入った項羽は、阿房宮を焼き、秦の皇帝「子嬰」を殺しました。子嬰は、宦官の趙高を討ったので、民衆に人気があったとされています。なぜなら、趙高が秦の悪政の原因だとされていたからです。このことで、項羽の評判は悪くなりました。

【楚漢戦争】

 項羽は、秦を三年で滅ぼし、功績のあった者を各地の王に任命しました。その中で、劉邦が任じられたのが西「左」にある巴蜀の地「漢」です。この事が「左遷」の語源だとされています。項羽は「西楚の覇王」を名乗り、楚の「彭城」を本拠地としました。この時、まだ項羽の主君として存在していたのが懐王です。項羽は、その懐王を暗殺しました。それを知った劉邦が、主君殺しを討つという名目で起こしたのが「楚漢戦争」です。

 劉邦は、項羽が留守の時、56万の大軍で彭城を占領しましたが、油断したため、すぐに奪還されています。この時、劉邦の妻と父は、捕虜となり、自身も馬車に乗っていた子供を投げ捨ててまで、必死に逃亡しました。ちなみに、その子供は、夏侯嬰という劉邦の側近が拾い上げています。

【垓下の戦い】

 劉邦は、項羽に対して連戦連敗でした。それでも、軍を立て直せたのは、側近の蕭何が兵糧と兵士を送り続けていたからです。劉邦は、まともに戦っても項羽には勝てないので、策謀に長けた陳平の内部分裂工作で、范増を失脚させました。劉邦が、最も信頼したのが軍師の張良です。その張良の策で、劉邦が項羽を引きつけている間に、韓信の別働隊が諸国を平定しました。そのため、韓信が、一時的に第三勢力になったとされています。項羽は、その韓信に同盟を持ちかけました。しかし、韓信は、それを断ったとされています。なぜなら、劉邦に恩義を感じていたからです。

 項羽軍は、補給路を断たれ、兵糧がなくなり、兵士の数も減り続けていました。楚漢戦争、最後の戦いとなったのが「垓下の戦い」です。韓信に追い詰められた項羽軍は、28騎まで減りました。それでも、項羽だけは、どうしても打ち取れなかったとされています。劉邦は、項羽を取り囲んで、夜中に楚の歌を歌わせました。それを「四面楚歌」と言います。それを聞いた項羽は、楚の人たちが劉邦側についたと思ったとされています。観念した項羽は「天が私を滅ぼす」のだとして、寵愛していた「虞美人」とともに自害しました。