【エクリチュール】
ジャック•デリタは「音声言語」と「書き言葉」を区別するために「エクリチュール」という哲学用語を提唱しました。エクリチュールは「書字」とも言います。書き言葉は、かつては話し言葉「音声」の写しであり、補助的な手段にすぎないとされてきました。話し言葉は「パロール」とも言います。パロールとは、具体的な発話行為のことです。エクリチュールは、パロールを安定的に存続させる手助けをしています。これまで西洋で軽んじられてきた書き言葉の存在意義を復権させたのが、 デリタのエクリチュールという新たな記号概念です。
【主体との関係】
エクリチュールには、主体の存在に左右されない、ある程度の「不変性」があります。例えば、肉体的な死によって、主体が不在になってもエクリチュールは機能するからです。音声「パロール」の場合は、主体がいなければ機能しません。パロールとは、その時、一度限りの発話行為のことです。例えば、亡くなった人の手紙や書物は、本人がいなくても読むことが出来ます。しかし、死んだ人のパロールはもう聞くことができません。 エクリチュールは、音声のうちにも働いています。それは、パロールとは、厳密には分離できないものです。
【音声中心主義】
音声とエクリチュールは区別されます。これまでの西洋哲学では、音声が表現媒体として特権化されてきました。それは、世界を音声に置き換え、正しく言い当てることが出来ると信じられてきたからです。しかし、世界は、常に変化するものです。それは、完全に静止することがありません。その変化するものの中にあって、音声は「同一性」をもとめてきました。同一性とは、世界を言い当てて、定義しようとすることです。しかし、言葉となったものは、時間の経過とともに、定義したものからズレていきます。そのため、音声によっては、世界を正しく言い表すことはできません。
また、音声こそが、その人の思考を直接的に伝達出来るものだとされてきました。なぜなら、自分が話している声を同時に聞くことが出来るからです。そのことから、音声こそが自分自身に近いものとされてきました。そうした音声優位の考え方を「音声中心主義」と言います。音声中心主義が、西洋の伝統的な思考様式でした。
【テキスト】
音声に対して、エクリチュールは、最初から「差異」によって成り立っています。差異とは、同一性の対立概念です。エクリチュールには、先行する「テキスト」があります。テキストとは、無数の記号の連鎖からなる世界の隠喩です。我々は、世界を解釈する時、既に存在しているテキストを参考にしています。読んだり書いたりすることが出来るのは、既存のテキストが存在しているからです。テキストを元に世界は解釈され、その痕跡として、更にその解釈されたものがテキストになります。世界とは、解釈された無数のテキストの痕跡です。人々は、これまで終わりなき解釈行為を繰り返していきました。これからもテキストは、人間によって解釈され続けるとされています。
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