【道】
老子は、万物の運動を「道」と表現しました。万物とは、静止している、ただの物の集まりではありません。それは、止まることのない永遠の循環運動です。道とは、無限の創造力を持つエネルギーのようなものです。それが、常に万物を生み出してきました。「道」とは、仮の名称です。人の理解を超えたものなので、それを言葉や文字では、説明することが出来きません。そのため、道は、名付けようのないものです。道を言葉にした途端、何か別のものになってしまいます。
【谷神】
「道」の働きは、始めも終わりもなく、不生不滅です。それは、無くなることがありません。道は、万物の深底にあり、通常は隠されています。そのため、目で見ることが出来ません。その様子を「玄」と言います。玄とは、奥深く暗いさまです。その働きには、通常は気づきません。しかし、それは常に存在していました。道は、形がなく、ぼんやりとしています。そのため、人間には捉え難いものです。
道の働きは、消極的なものでありながら、全てに行き渡る作用を及ぼしています。積極的に働きかけないのに、全てを成し遂げました。それは、万物を産み育てる「万物の母」のような存在です。老子は、それを比喩的に「谷神」と呼びました。
【無為自然】
自然は、自ら意図的に何かを作ろうとはしていません。しかし、その働きは、全てを完成させてしまいます。老子は、それを「無為自然」と呼びました。無為自然とは、他から干渉されず、ただ自然にそうなることです。万物は、道によって無限に生成変化しています。その変化には、始めも終わりもなく、ただ永遠に循環運動を繰り返しているだけです。そこには、完成されるべき目的などありません。自然は、ただ自分の本性に従っているだけです。それは、積極的な働きではありません。
老子は、この世界には、無為自然の営みがあるだけだとしました。その自然には、人間も含まれます。老子が理想としたのは、無為自然の徳を身につけることです。そのため、人間の作為や意図的な努力には否定的でした。それらが無為自然の道から外れることだからです。
【水】
老子が、道に最も近いものだとしたのが「水」です。それを「上善は水のごとし」と言います。水は、その働きに無理がありません。ただ地形に従って流れていくだけだからです。それを「方円の器に従う」と言います。また、老子は「柔よく剛を制す」とも言いました。それは、水が、最も柔らかいものでありながら、岩をも砕くことが出来るからです。また、水というものは、低い位置を目指します。老子は、その在り方を処世術にも適用しました。無為自然の徳がある人は、誰もが嫌がる低い地位にあえてつくものです。そのため、上を目指して、他人と争うことがありません。それを「不争の徳」と言います。
【赤子】
老子が、水以外に、無為自然に近いものだとしたのが「赤子」です。赤子は、ただ自分の欲望に従っているだけです。まだ自我が芽生えておらず、作為などありません。しかし、自分は何もしないのに、周囲の大人たちを動かす力があります。赤子は、柔弱な存在です。それでいて、生命力に満ち溢れています。逆に、固く硬直化した大人は、壊れやすいものです。赤子は、まだ世間の価値観に毒されておらず、善悪などの道徳的な価値観がありません。老子は、それこそ人間が本来あるべき姿だとしました。なぜなら、人間にとって、無垢な状態こそが理想的だからです。
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