ジジイのたわごと

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長崎原爆:1946年、ナガサキの傷痕−−ソ連視察団報告書

2014-01-23 05:56:20 | トピック
 
長崎原爆:1946年、ナガサキの傷痕−−ソ連視察団報告書

毎日新聞 2013年08月19日 東京朝刊




1946年9月11日にソ連の駐在員が撮影した被爆地・長崎の写真
=ロシア外務省公文書館保存より



1946年9月に被爆地・長崎を視察したソ連駐在員の報告書
=2013年8月16日午前10時4分、田中洋之撮影より



1946年9月11日にソ連の駐在員が撮影した被爆地・長崎の写真。見つかった写真から3枚をつなぎ合わせるとパノラマ写真になった=ロシア外務省公文書館保存より



 原爆投下から約1年後に長崎入りした当時のソ連の視察団が撮影した写真がロシア外務省公文書館に保管されていることが明らかとなった。毎日新聞が入手した13枚の写真と報告書には、被爆で壊滅した長崎市内の様子が克明に刻まれていた。このうち一部を紹介する。【モスクワ田中洋之、長崎支局・樋口岳大】

 報告書によると、ソ連軍情報部所属のワシーリー・グリンキン氏(故人)らソ連駐在員4人が列車で長崎駅に到着したのは1946年9月11日早朝。戦後に日本を占領した米国が主催した被爆地の視察ツアーには、ソ連のほか英国やフランス、中国などの代表が参加した。

 一行が四輪駆動車で向かった市北部は「郊外まで完全に破壊されていた」。爆心地から約700メートルにある長崎医科大学付属医院(現長崎大学病院)では、男性医師から「爆発の瞬間、閃光(せんこう)とともに建物全体が振動した。1階にいた私は防空壕(ごう)に逃げたが、多くの患者や職員が亡くなった」と説明を受けた。

 視察は約3時間にわたって行われた。報告書は市内の被爆状況について「長崎を西方から取り囲む山の頂上にまで広がり、樹木は今もしおれたままだ」と指摘。一行が直前に訪れた広島と比較して「原爆の破壊力は長崎のほうが上回っていた」と総括している。

※ジジイのたわごと
 ソ連駐在員が、原爆被災地の長崎を視察した理由は、分からないが、その時の報告書が、公表されたのは、秘密主義と云われてるロシアとしては、珍しいことであろう。

※次も本日のブログです。

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