けまりを始める前の神事はとても奈良を感じさせる
奈良・飛鳥の東の山中にある「談山(たんざん)神社」は、大化の改新の出発点となった蘇我入鹿暗殺事件である乙巳の変(いっしのへん)の“談合”を行った場所として知られています。
乙巳の変の首謀者である中大兄皇子と中臣鎌足は、飛鳥の法興寺(現:飛鳥寺)で行われた蹴鞠(けまり)をきっかけに親しくなったと日本書紀に書かれています。蹴鞠は中国からもたらされたものですが、相撲と並んで娯楽・競技として行われた日本最古のスポーツと考えられています。
そんな奥深い蹴鞠が、毎年春と秋に蹴鞠との縁が深い談山神社で披露されます。春の花々や新緑の中で行われる蹴鞠はとても雅です。京都で見る蹴鞠よりさらに、悠久の歴史を感じることができます。奈良の談山神社で見る蹴鞠は格別です。
蹴鞠は足で蹴る鞠、すなわちボールさえあれば、老若男女誰でもできます。古代の中国や日本でのルールが現代と同じかは定かではありませんが、必要設備やルールがシンプルで多くの人に楽しまれたことだけは間違いないようです。
中国では清代に途絶えますが、日本では現代まで続いています。
50歳台以上の方には記憶があるでしょう。昭和の頃は会社勤めの昼休みに数人で、バレーボールを落とさないよう打ち合うレクリエーションが盛んに行われていました。蹴鞠はまさにこれと同じです。
古代文明の時代から行われていたサッカーも、蹴鞠のようにボール一つさえあれば簡単に楽しめます。サッカーは現在、世界で最も多くの競技人口があり、最も人気を集めるスポーツです。
スポーツにしろ娯楽にしろ、シンプルなものはとても多くの人に愛されます。蹴鞠はそんなシンプルなスポーツの原点であり、相撲と共に“日本の国技”としてとらえるべき存在でしょう。
蹴鞠は平安時代には貴族の間で大流行し、その後は庶民にも広がりました。江戸時代も庶民の娯楽や曲芸の一つとして盛んに行われていました。
明治維新で一旦途絶えますが、明治天皇の一声で有志による保存会が結成されます。現代も談山神社のけまり祭をはじめ、各所で披露しています。この保存会は京都・白峯(しらみね)神宮を中心に活動しています。
白峯神宮は、平安末期の蹴鞠の名手・藤原頼輔を祖先とし、幕末まで続いた蹴鞠の家元・飛鳥井(あすかい)家の邸宅跡に明治になって創建された神社です。
十三重塔を見上げる蹴鞠の庭に続々と見物客が集まる
談山神社のけまり祭は、権殿の下にある「蹴鞠の庭」で行われます。談山神社のランドマークである十三重塔を見上げる美しい広場です。平安時代を感じさせる装束に身を包んだ保存会の人が庭に入ってくると、とても神聖な空気に包まれます。
撮影日は雨天で、テントの下での開催
蹴鞠が始まると息を合わせて「アリ」「ヤ」「オウ」の掛け声で蹴り続けます。見物客がみな回数を数えていと思えるように、何回続くかとてもワクワクしながら見物します。
保存会の人は昔ながらに袴をはいていますが、決して蹴りやすいユニフォームには見えません。それでもとても器用に回数を重ねていきます。スポーツというより、さながら古典芸能を見ているようです。
中臣鎌足もこのように蹴鞠を行っていたのかと、感じさせる一瞬でもあります。
黄色のヤマブキ
ピンクのシャクナゲ
談山神社は紅葉で有名ですが、春の鮮やかな花も私はおすすめします。ヤマブキやシャクナゲが4月は見事なナチュラルな色のコントラストを見せてくれます。けまり祭の4/29には、例年桜も楽しめます。標高が高く八重桜が多いことから開花が遅くなるからです。
開花がとても早かった2018年は桜が見れるかビミョーですが、新緑と花の明るいコントラストの素晴らしさだけは間違いないでしょう。
日本の歴史の原点の一つである談山神社で行われる蹴鞠。わざわざ出かける価値があります。
こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさん。
日本古代史の第一人者ペアが日本という国家を見つめる
談山神社
http://www.tanzan.or.jp/
談山神社 春のけまり祭(奈良県観光公式サイト)
http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/01shaji/01jinja/03east_area/tanzanjinja/event/78ovjupzau/
開催日:毎年4月29日、11月3日
※仏像や建物は、公開期間が限られている場合があります。
祭りのポスターが中世っぽくてかっこいい
京都市の北部にある小高い船岡山の北に位置するエリアは「紫野(むらさきの)」と呼ばれています。千利休や一休さんゆかりの大徳寺があり、さらに北側に今宮神社があります。平安時代に京都で盛んだった怨霊を鎮める儀式「御霊会」を執り行う社として創建されました。
その御霊会の名残として、京都でも有数の中世の趣を感じさせる「やすらい祭」が4月第2日曜日に行われます。有名な祇園祭も御霊会が起源です。2つの御霊会がどのように現在に伝えられてきたのか、京都の文化の奥深さを体験できる稀有な祭りです。
平安京における御霊会は、疫病の流行を鎮めるために863(貞観5)年に神泉苑で行われたものが最初とされ、祇園祭の原型もこの頃には行われていました。科学が存在しなかった平安時代には、人々は疫病や天変地異の恐怖に常にさいなまれていました。
平安京の中心の朱雀大路の真北にある小高い船岡山を神が宿る山に見立てたのでしょう、御霊会を行う社を築きます。この社は1001(長保3)年に現在地に移され、「紫野社」と名乗るようになります。現在の今宮神社の創建です。
やすらい祭の原型となる御霊会は、平安時代を通じてかなり盛んに行われていたようです。平安時代末期には「詣でる装束が華美に過ぎる」ためやすらい祭り自体が勅命で禁止されたほどです。応仁の乱による中断を経て江戸時代に復活します。
江戸時代は今宮神社のあたりは農村地帯でした。このため現在のやすらい祭は、農村部の厄除けの姿を踏襲していると考えられます。今宮神社には境内の南部に位置する西陣エリアの都市部の町衆の厄除けの姿を踏襲している祭もあります。5月に行われる「今宮祭」です。
やすらい祭りの行列は「花笠」が主役
大鬼の装束は現代のイメージとはずいぶん異なる
祭りは花笠を主役とした行列が、境内の北側の氏子エリアをまわることで始まります。中世を感じさせる独特のテンポ良い囃子に導かれ、大鬼が「やすらい花や」の掛け声で疫神を追い立て、花笠に集めまる踊りを披露します。疫神は最後に今宮神社で鎮められ、花笠の中に入った人は健康に過ごせると信じられています。
やすらい祭は、囃子の拍子と装束がとても神秘的です。とても中世を感じさせます。どのような時代考証を経たのかはさらに調べなければわかりませんが、現代人が見ると祇園祭や葵祭よりもさらに原始的な祭りの姿を伝えている印象を与えます。
参道にもいにしえの情緒があふれている
参道には京都の数ある門前名物でも横綱級の情緒を味わえるお店が二軒あります。串刺ししてきな粉をかけた餅を焼き白味噌のたれをかけて食べる「あぶり餅」の店です。
「一文字屋和輔(いちもんじやわすけ)」は創業が平安時代の1000(長保2)年で、今宮神社が現在地に鎮座する頃と重なります。日本最古の飲食店と言われています。もう一軒の「かざりや」も江戸時代初期の創業です。二軒で微妙に味は違います。二軒ともYou must visitなお店です。
店頭で焼かれるあぶり餅の香ばしさはたまらない
「やすらい人形」という厄除けのお札も売られています。とてもかわいいです。とても中世的なデザインで、いかにも厄除けに効き目がありそうに見えます。お土産としてもおすすめです。
やすらい人形
こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさん。
京都の祭の理解は京都の歴史の理解に
今宮神社
http://www.imamiyajinja.org/
原則休館日:なし
※拝観・見学に条件はありません。いつでも無料で拝観・見学できます。
やすらい祭
開催日:毎年4月第2日曜日
紀の川に春を告げるモモの花
和歌山県北部の紀の川市では、サクラとほぼ同じ時期に花を咲かせるモモの花が、春に一面を覆いつくします。その光景が近年「桃源郷」のようだと注目を集めています。サクラよりもピンクの色の濃いモモの花はどこか神秘的です。普段と違う春の花見はいかがでしょうか?
【公式サイト】紀の川市はフルーツ王国!
吉野の山あいから高野山の麓を通り四国に面した太平洋にそそぐ紀の川は、紀伊(きい)の国、現在の和歌山県の母なる大河です。川沿いでは温暖な気候を活かし、フルーツの栽培が盛んです。モモ・イチジク・ハッサクなど全国有数の出荷量を誇ります。
全国的に有名になった紀の川市のモモのブランド「あら川の桃」は、紀の川の水の恵みの賜物です。モモは春に花を咲かせてから果実を熟し始め、初夏に旬を迎えて出荷されます。初夏に味わえる甘味とみずみずしさは、温かい紀州のかけがえのない恵みを感じさせてくれます。
春の花と言えば、まずサクラがあがります。淡いピンク色の可憐さが日本人の心にかけがえのない風物詩となっています。モモの花もサクラによく似ています。春の少し前のウメもよく似ています。いずれも白・ピンク・紅と色とりどりですが、品種改良が盛んで色だけでは見分けがつきません。モモも濃いピンクが一般的ですが、白や紅の色もあります。
モモ:花びらの先端がとんがっている
サクラ:花びらの先端が割れている
ウメ:花びらの先端がまるい
このように花びらの先端の形状で見分けるのが一般的です。かなり近づいて見ないと正確な違いは判りませんが、そんな違いが一面に重なった光景には、それぞれの花の個性の違いを楽しむことができます。
2月から咲き始めるウメは、春の温かさの到来を最も早く告げてくれます。まだ寒いのに一生懸命花を咲かせようとしています。花びらの先端がまるいのは、少しずつ春の訪れを押し出そうとしているからだと思えてなりません。
サクラはウメより少し後、暖かくなってから咲き始めます。花びらの先端を少しでも延ばすことで春の到来をより主張しています。モモは春の到来の主張をもっと明確にしていると思えます。サクラとは異なり、果実の熟成のためにたっぷりと栄養を空襲する必要があります。そのためサクラ以上に花びらを咲かせようとしているのでしょう。
春の紀の川の休日はモモを見ながらピクニック弁当
モモが一面を覆いつくす光景は、ピンク色が濃いこともあってどこか非日常的な空間を醸し出します。「桃源郷」とは中国の古典で表された概念で、日常の世界とは真逆のたどり着きたくても絶対にたどり着けない世界を指します。そこは不快のない理想郷、すなわちユートピアではありません。100%理想的な社会は絶対にありえないという、ある意味“戒め”を表すものです。
そんな古典の世界観をどこかで聞きつけたのか、近年は香港・台湾の観光客が春にたくさんやってきます。日本人にも決して有名ではない観光地をどうやって知ったのか、おそらくSNSがきっかけだとは思いますが、彼らの情報収集への意欲には頭が下がります。
菜の花の黄色がモモの花をより一層神秘的に見せる
モモの花は春に咲きますが、果実の収穫は初夏です。収穫に向けてもう少し頑張らねばなりません。一面のピンクの絨毯は「花を見て浮かれていてはまだならぬ」と人間に教えているようです。そんなように見せる紀の川のモモの花は、本当に神秘的なのです。
こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさん。
あら川の桃の記憶に残るような濃厚な味わいが年中楽しめます
桃源郷(あら川の桃振興協議会)
http://aramomo.server-shared.com/togenkyo.html
桃源郷(紀の川市観光協会)
http://www.kanko-kinokawa.jp/tougenkyo/
チューリップとサクラが一緒に楽しめます
京都府立植物園は、京都市民の間では有名なサクラのスポットです。京都と言えば嵐山や醍醐寺のように有名な景勝地や寺社をまず思い浮かべますが、なぜでしょうか。答えは「空いている」からです。植物園だけあって敷地や散歩道はとても広く、道が狭くて大混雑する嵐山や哲学の道とは真逆です。著名な景勝地や寺社を借景にした花見にこだわらなければ、断然おすすめのゆったりスポットです。
植物園は京都の北の方、賀茂川沿いにあり、最寄りは地下鉄・烏丸線の北山駅です。北山駅付近は京都でも指折りの閑静な住宅街です。カフェやレストランのお店の佇まい、歩いている人のファッション、走っているクルマを見ると違いは明らかです。東京で言うと世田谷区の砧公園に近いイメージだと思います。
入園は有料ですが、大人200円、高校生150円、中学生以下無料と格安です。東西南北方向それぞれ500mほどある敷地は広大です。植物の種類は多すぎてよくわかりませんが、12,000種類あるそうです。カメラ好きな人の中には、一日中いる人もいると聞きます。
ソメイヨシノはのびのび
園内でサクラは、北西寄りにある半木(なからぎ)神社と観覧温室の間にまとまって植えられています。現在の植物園は大正時代の開園ですが、それまでは上賀茂神社の境外末社である半木神社とその鎮守の森でした。植物園になった後も神社の建物はそのまま残されました。植物園の西側を流れる賀茂川沿いもサクラの名所です。「半木の道」と名付けられていますが、この神社に因んだものです。
ソメイヨシノとシダレザクラが目につきますが、正確にはサクラだけでも100種類以上あるそうです。いずれも余裕のある空間で、木同士で喧嘩しないようのびのび育てられています。芝生にしろ、散歩道にしろ、実にゆとりがあって思う存分サクラを堪能できます。写真撮影の際にアングルに入っている人が移動するのを待つようなことも滅多にありません。
アルコールはNGですが、お弁当の持ち込みはOKです。日中に「ピクニック花見」を楽しみたいママ友やカップル、高齢者に特に人気があります。サクラ開花時期には夜間開園され、ライトアップも楽しめます。
【公式サイト】サクラ情報
飛び石伝いに賀茂川を渡れます
園の西側の半木の道も、サクラはもとよりとても京都らしいのどかな風景が広がります。川を流れる水の音しか聞こえないほど静かです。川には水鳥がたくさんいます。賀茂川を渡れる飛び石は、子供やカップルに大人気です。親しい人と時間を忘れて語り合うには最高のロケーションです。
結婚記念写真の撮影スポットとしても有名です
賀茂川沿いはテレビドラマの撮影にもよく使われますが、植物園内は結婚記念写真の撮影によく使われます。それだけ絵になる光景が待ってくれています。普通の京都とは違う花見が楽しめます。ぜひ足をお運びください。
こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさん。
品種が豊富で奥が深いサクラを徹底解剖
京都府立植物園
http://www.pref.kyoto.jp/plant/
原則休館日:年末年始
サクラ開花状況(ウェザーニュース)京都府立植物園
https://weathernews.jp/s/sakura/spot/296/
地下鉄蹴上駅から南禅寺に至るトンネル
京都の中でも特に個性があるサクラを、南禅寺でまもなく楽しめます。東山のなだらかな山麓にある境内は木々の密度に余裕があります。そのため心地よい程度に光が地面に届き、苔のみずみずしさを楽しめます。また緑の色と水の流れの音との調和がとても美しく、中世以来京都随一の別荘地としての上質な空間を保っています。
そんな中に明治に造られたレンガ造りの水路が通っていますが、これが実に明るい木々の緑とマッチしています。南禅寺のサクラはそんな絶妙の組み合わせに、一層花を添えます。600年以上の時差がある風景を借景に花見ができるのはここだけです。
南禅寺は鎌倉時代の1291(正応4)年、亀山法皇が父・御嵯峨天皇が造営した別荘を寺に改めたのが始まりです。室町時代には足利義満によって全国の禅寺の最高格付けである「五山の上」に位置づけられますが、戦国時代には戦乱で伽藍のほとんどを失います。
しかし江戸時代初期に以心崇伝(いしんすうでん)、すなわち金地院崇伝の名で知られる実力者が登場すると、寺の復興は一気に進みます。彼は家康~家光と三代に渡って将軍のブレーンを務め、武家諸法度などの重要政策を立案した“黒衣の宰相”として知られます。南禅寺は江戸時代を通じてすべての禅宗寺院の管理権を幕府から与えられ、知恩院・金戒光明寺と並んで京都における徳川の権力の象徴のような存在でした。
しかし明治になると徳川との近しい間柄があだとなります。廃仏毀釈もあって新政府から厳しい目を向けられます。蹴上から鹿ケ谷あたりまで広がる広大な土地はすべて南禅寺の境内でしたが、半ば強制的に召し上げられました。
工場地帯になる予定だったその土地は計画変更され、住宅地として民間に払い下げられます。そこには琵琶湖疎水が完成し豊富な水がありました。中世以来の別荘地の伝統があったように、自然と調和した風光明媚さに価値を見出す人も少なくありませんでした。
そのため富裕層向けの別荘地となり、明治の名作庭家・七代目小川治兵衛が多くの庭を手掛けました。現在も、現役で使用されているため普段はめったに公開されない最高級別荘として、とても静かな時をきざんでいます。
南禅寺三門は額縁のようにサクラを演出する
南禅寺は、歴史の荒波にもまれながらも自然と調和した風光明媚さを保ってきました。そんな境内にさりげなくサクラが植えられています。決して密度は濃くありません。逆に空間があることで苔や新緑の緑ととても調和します。なだらかな山麓に点在するため、高低差を活かしてサクラが立体的に見えます。とても優雅で気品のある花見が楽しめます。中世の王朝文化がまさに今に続いていると感じられます。
そんなピンクと緑の調和が美しい空間の中に、歴史を感じさせる煉瓦造りのアーチが見えます。テレビドラマのロケ地でも著名な「水路閣」です。琵琶湖疎水を市内北部に分流させるために建設されたバイパスです。分流の先はかの有名な「哲学の道」の小川です。
建設時には景観を乱すと物議をかもしました。しかし結局建設されたのは、当時南禅寺の立場がまだまだ弱かったためだと思えてなりません。聖域のような場所に人工建造物を作るのは、当時の寺の関係者にとっては断腸の思いだったでしょう。
しかし時間の経過は景観や人間の価値観を変化させます。100年以上たった現在、水路閣を見て違和感を抱く人はまずいません。それどころか集客の目玉となり、南禅寺の観光収入に絶大な貢献をしていると考えられます。水路閣の煉瓦にもサクラの花の色はとても調和しています。近代化にまい進した明治の京都市民の熱い思いを今に伝えています。
南禅寺に隣接する琵琶湖疎水インクラインもサクラの高低差が見事
南禅寺は境内や参道が広く、さほど混雑を感じさせません。近隣のインクラインや岡崎疎水と合わせて楽しむと、一層記憶に残る花見となるでしょう。京都でしかできない花見です。
こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさん。
南禅寺
http://www.nanzen.net/
サクラ開花状況(ウェザーニュース)南禅寺
https://weathernews.jp/s/sakura/spot/6107/
水辺に近いサクラは絶品(岡崎疎水から分かれる白川)
京都・岡崎がサクラで華やぐ日がまもなくです。岡崎公園の南端と西端を囲む堀のような水路は、琵琶湖疎水の一部です。市民には「岡崎疎水」として親しまれており、市内有数の桜の名所でもあります。
平安神宮をはじめ、美術館、動物園など文化を愉しめる施設が集中する岡崎は、明治に京都の街が近代化を推し進める象徴のような場所でした。文化エリアとしてすっかり定着した岡崎を、圧倒的な密度のサクラが彩ります。
岡崎は平安時代から歴史に登場します。平安初期に藤原良房によって別荘「白河殿(しらかわどの)」が建てられて以来、天皇や貴族の別荘地として華やかな貴族文化が栄えていました。
白河殿は平安時代後期になって天皇に譲渡されます。長らく続いた藤原氏の摂関政治を脱し、院政による権力掌握を確立した白河天皇です。絶大な権力を誇ったことから、平家物語に「鴨川の水、双六の賽(さい)、(叡山の)山法師、意のままにならないのはこの3つだけ」と豪語した逸話がのせられていることはよく知られています。
その白河天皇が創建した「法勝寺(ほっしょうじ)」が現在の動物園の付近にありました。境内には高さ80mの巨大な八角九重塔があり、威容を誇っていました。他にも一帯には平安時代末期にかけて歴代の天皇が創建した寺が5つあり、あわせて「六勝寺(ろくしょうじ)」と呼ばれていました。六勝寺は応仁の乱の頃まであったと考えられていますが、その後は明治まで何も使われていない空地でした。
明治になって都が東京に移ったことに危機感を抱いた京都市民は、近代化を強力に推し進めます。その象徴が琵琶湖疎水と内国勧業博覧会でした。空地だった岡崎はその象徴の用地として脚光を浴びます。
1890(明治23)年にまず、琵琶湖疎水が開通します。続いて1895(明治28)年に内国勧業博覧会が開催されます。文明開化・殖産興業の成果を披露する場として始まった内国勧業博覧会は、京都と次回の大阪(1903年)の2回はエンタテイメント性を強め、入場者数が大幅に増加します。会場への足として、日本初となる路面電車の営業運転を始めたことも人気に拍車をかけました。
平安神宮も、内国勧業博覧会にあわせて平安京大内裏が復元され、桓武天皇を祀る神社になったものです。当初は実際にあった千本丸太町に建設が計画されましたが、用地買収ができず、岡崎に建設されることになりました。岡崎の“場力”には運も味方したのです。
以外かもしれませんが、時代祭もこの時の平安神宮の創建にあわせて始められました。市民が手弁当で平安時代以降の各時代の装束で行列し、神宮の創建を祝いました。その行列が好評だったのでしょう、翌年からは桓武天皇が長岡京から平安京に入ったとされる10月22日に行われるようになりました。
その後も、1903(明治36)年に京都市動物園、1909(明治42)年に京都府立図書館、1933(昭和8)年に京都市美術館と、市民が憩いや文化を楽しむ施設が次々と建設され、現在に至ります。明治以来、岡崎は京都市民にとても愛され続けているのです。
岡崎疎水を遊覧する十石舟は大人気
岡崎の桜は水辺一杯に密度濃く咲き乱れるのが特徴です。東京・千鳥ヶ淵や弘前城と似ています。風がない時に水面に写るサクラは絶景で、ライトアップされる夜間にはさらに美しさを増します。十石舟による岡崎疎水の遊覧も、サクラを低い目線から眺められるため見応えがあります。ただサクラの時期はチケット入手がかなり困難です。運航は5月連休まで行われていますので桜の時期を外すのも一考です。
京都国立近代美術館のロビーは極上の空間
疎水端を歩きながら、美術館や動物園を巡るのがおすすめです。少し休むにはロームシアター京都内のSTARBUCKSや京都国立近代美術館のカフェがおすすめです。京都国立近代美術館は無料で入れる1Fロビーからの疎水端のサクラの眺めが絶景です。室内からサクラを見るととてもVIPな気分になれます。岡崎はとても明るく、人々に愛されてきたことを感じさせるサクラ・スポットです。元気になれること間違いなしです。
こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさん。
京都の写真家と言えば水野克比古
京都岡崎魅力づくり推進協議会「京都岡崎コンシェルジュ」
http://www.kyoto-okazaki.jp/
十石舟めぐり
http://kyoto-tabi.or.jp/events/jkkfn/
サクラ開花状況(ウェザーニュース)平安神宮
https://weathernews.jp/s/sakura/spot/295/index.html
宇治川で桜をめでる舟遊び
宇治は源氏物語の舞台としても知られるように、平安時代には貴族の別荘地でした。京都中心部から南に位置するため温暖なのです。宇治川が醸し出す水辺の風景は、今も遺る平等院鳳凰堂ととてもマッチしています。そんな古からの景勝地はいま、桜の名所として知られています。多くのお店で味わえる宇治茶を添えながら、和風文化の原点を感じさせる花見が楽しめます。
源氏物語の主人公・光源氏のモデルとされる源融(みなもとのとおる)は、平安時代初期の実在の貴族です。絶世のイケメンだったことが知られています。嵯峨にあった別荘の跡地に彼を偲んで建立された清涼寺に伝わる国宝・阿弥陀如来坐像は、その姿の生き写しだったと伝えられています。この阿弥陀様は、確かにとてもイケメンな貴公子に見えます。
【京都市観光公式サイトの画像】 清凉寺 木造阿弥陀如来両脇侍像
源融は宇治にも別荘を設けました。それが現在の平等院の前身です。平等院は宇多天皇、藤原道長と時の最高権力者に続けて愛され、藤原頼道が1052(永承7)年に寺院に改めました。
宇治は中世には上流階級の別荘地として最高の格付けでした。冬に寒く夏に暑い盆地の洛中とは異なり、常に温暖で水辺が楽しめたからです。室町時代には、栄西が宋からもたらした「茶」の産地ブランドとしての地位が確立します。江戸時代には毎年将軍家に献上され、全国に茶の製法を伝えていくことになります。
宇治川の中の島
このように宇治は、和風文化の原点とも言える場です。日本最古の橋のと言われる「宇治橋」から眺める宇治川の風景は、嵐山と並んで日本を代表する「風光明媚」です。宇治橋からは宇治川の中の島が間近に見えます。近年になって治水のための護岸工事にあたり、宇治川両岸や中の島に桜が植樹されました。古からの別荘地のイメージが醸し出す「風光明媚」に、桜はとてもマッチしています。
中の島の巨大なシダレザクラ
宇治川の桜の魅力は、自然の水辺との調和です。お城の堀のように人工的に作られた水辺でもなく、大都市の川ように高速道路の構造物が目に入ることもありません。自然の川と山と大きな空が作り出す借景が、桜と抜群のハーモニーを見せています。ここにしかないサクラの絶景です。
ぽかぽか陽気の水辺で桜を見るのはまさに至福のひと時
こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさん。
超長編小説の全貌をコンパクトに解説
宇治市観光協会
http://www.kyoto-uji-kankou.or.jp/
醍醐寺・霊宝館への参道は桜のトンネル
今年も桜の季節がやってきます。醍醐寺は京都でも南に位置することから、桜の開花が早いことで知られています。またソメイヨシノはもとより、ヤマザクラ、シダレザクラ、ヤエザクラと種類が豊富なのが特徴です。花を咲かせた木の大きさや枝の拡がり方を様々楽しむことができ、開花期間も3種間ほどとソメイヨシノだけの場合に比べて長めです。
豊臣秀吉の人生の最後の華となった「醍醐の花見」の舞台でもあります。400年前に名物となった桜は今も健在です。京都を代表する花見の名所です。伽藍が大きいため混雑感をあまり感じさせません。
築1,000年を超える五重塔
醍醐寺は平安時代初期の創建で、開祖の理源大師聖宝(しょうぼう)をはじめ、知名度の高い僧を多く輩出しています。天皇や将軍など時の権力者と関係を築くのが伝統的に上手です。結果的に広大な伽藍を維持し、京都最古の建築である五重塔や三宝院の書院・庭園、15件の国宝指定美術品など、その時代の超一級の膨大な文化財を今に伝えています。
応仁の乱で五重塔を除いて全焼した伽藍の復興に努めていたのが、1576(天正4)年に醍醐寺のトップになった義演(ぎえん)です。義演は秀吉や天皇からの信奉が厚く、安土桃山時代の王朝文化の至宝である三宝院書院と庭園は「醍醐の花見」に際して整備されたものです。
花見の下見に秀吉が幾度も訪れ、700本の桜が事前に植えられました。花見は江戸時代に庶民階級にも拡がりますが、そのきっかけとなったのも秀吉による「醍醐の花見」でした。
義演は家康とも懇意でした。大坂の陣後も立場が弱くなることはなく、逆に聖護院と並ぶ修験道の本山としての地位を確立します。明治の廃仏毀釈では多くの子院が廃寺に追い込まれましたが、本山や三宝院は伽藍を維持しました。また資金調達のための文化財売却を一切行わず、乗り切っています。天皇や公家とのパイプに加え財力があったからでしょう。当時の仏教寺院としてはまさに奇跡的です。
霊宝館のシダレザクラ
こうした歴史を積み重ねてきたためか、醍醐寺の桜の特徴を一言で表すと「風格」です。実に大きくて優雅です。幹が太く、枝が長く、一本の木に咲く桜の花びらのボリューム感がとてもあります。寺が長い時間をかけて大切に育ててきたことが伝わってきます。
中でも霊宝館のエリア内にあるシダレザクラは絶景です。地を這うように水平に四方に枝を延ばす姿は、まるで龍が踊っているようです。沿道から写真をとっても、大きすぎて全体が収まりません。
霊宝館の室内のガラス張りの休憩室からも、この巨大なシダレザクラを見ることができます。特別観覧席から鑑賞するVIPのような気分を味わえます。五重塔や三宝院といった美の至宝を借景とするサクラの眺めもここでしか味わえません。
植生が容易なソメイヨシノの本数ではなく、一本一本の大きさとボリューム感で勝負しています。シダレザクラの巨木は各地にありますが、ほとんどは一本だけです。醍醐寺には巨木が何本も並んでいます。秀吉や公家など限られた人しか楽しめなかった優雅な花見が、現代は誰でもできるのです。現代も花見スポットの王者は醍醐寺です。
こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさん。
桃山時代の京都人の視線で見た秀吉の治世
醍醐寺
https://www.daigoji.or.jp/index.html
原則休館日:なし
醍醐寺 桜情報(公式サイトが発表する開花状況)
https://www.daigoji.or.jp/index.html
二月堂の舞台に向け登廊を上がっていく松明
東大寺で最も大切な宗教行事「修二会(しゅにえ)」の本行が始まっています。巨大な松明が二月堂の舞台で振り回される「お松明」は、毎年3/12の「お水取り」として特に有名です。しかし「お松明」は3/1~3/14の間、毎日行われています。極端に混雑する3/12ではなく、人混みが落ち着いている他の日に、東大寺にとっての大切な宗教行事を拝観することをおすすめします。
これは祭りではありません。厳かな気持ちで、春の訪れを告げる風物詩を体験してみてください。
「修二会」とは、仏教寺院で冬に行われる宗教行事です。僧が寺の本尊に「悔過(けか)」、すなわち懺悔することで人々の幸福を祈ります。日本全国の寺で行われていますが、東大寺や薬師寺など奈良の古寺で行われるものが著名です。旧暦の二月に行われていたことが、名称の由来とされています。
しかし明治に新暦になってから実施月を変えた寺もあり、現在はおおむね2月~4月の範囲で行われています。似たような名称で、1月の正月明けに行われる「修正会(しゅしょうえ)」もあります。寺によっては修二会との区別があいまいな場合もあり、統一された明確な定義はありません。
東大寺の修二会は「不退の行法」と称され、東大寺が存続する限り欠かさず続けられるものと位置付けられています。東大寺の修二会が始まったのは、奈良時代の752(天平勝宝4)年です。以来本当に一度も欠かさず続けられています。そのため2018年は1,267回目になります。これほど古く、かつ継続して続けられている宗教行事は世界的にも稀有でしょう。
東大寺を開山した良弁(ろうべん)の弟子である実忠(じっちゅう)が、大仏開眼の年に修二会を始めました。危機は幾度もありました。
1180(治承4)年の平重衡の南都焼討と、1567(永禄10)年の三好・松永の戦いの二度、二月堂や法華堂を除いて東大寺はほぼ全焼しています。この2度の兵火ではいずれも二月堂は無事だったことが、時の僧侶たちを奮い立たせました。焼失した大仏殿を弔う気持ちも強かったでしょう。
この後にもさらに大きな試練がありました。1667(寛文7)年には修二会本行中の失火で二月堂そのものが焼失しました。また太平洋戦争末期の1945年には、物資不足と軍による灯火管制が立ちはだかりました。この時は二月堂の扉に目張りをして光が外に一切漏れないようにし、何とか軍を説得したそうです。また松明でなくろうそくで行いました。
暗くなると二月堂に続々人が集まり始める
「お水取り」とは正確には、3/12の深夜(正確には3/13 AM1:00)に「閼伽井屋(あかいや)」から香水を汲む行事のことだけを指します。毎日行われるお松明も、3/12だけは松明の大きさが大きく、本数も11本と1本多いことから、修二会が「お水取り」という名で定着しました。おそらく報道の影響でしょう。
3/12だけは「籠(かご)松明」と呼ばれます。長さ8m・重さ80kgあります。他の日は重さが約半分です。私は3/12と3/3にそれぞれの松明を見ました。3/12の方がよく見ると大きいですが、正直大きさや迫力の違いはあまり感じません。それよりも3/12の混雑を避けることに意味があると思います。
3/12は二月堂前の広場に入場制限がかかり、最悪見れないこともあります。3/12以外の土日では人出は半分以下、平日ではさらに少なくなります。修二会はお祭りではなく宗教行事です。厳かな気持ちで拝観するには、極端な人混みは適しません。
開始時間になると二月堂前の明かりが消され、しんと静まり返ります。二月堂に向かって登廊を駆け上がる松明はとても幻想的です。練行衆が舞台の上で松明を振り回すと、巨大な火の粉が飛び散ります。火事が大丈夫かと心配になるほどの迫力があります。
練行衆の目に入ると危険なため「カメラのフラッシュ厳禁」と事前に説明されますが、少なからず守れない人がいます。地震の際の行動などで日本人はマナーがよいと思っている人が少なくないでしょうが、本当にマナーがよいのかははなはだ疑問です。
お松明の火の粉を被ると幸福になると信じられている
閼伽井屋の香水は、古くから若狭の神が10日間かけて二月堂に運んで献じたとされてきました。そのため福井県小浜市の神宮寺では現在も、毎年3/2に「お水送り」という宗教行事が行われています。若狭は京都とのつながりが深いですが、奈良とも縁があるとは驚きです。今年も多くの人に支えられ、修二会が執り行われます。
こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさん。
行法の臨場感と小沢昭一の語りが秀逸
東大寺「修二会(しゅにえ)」本行
http://www.todaiji.or.jp/contents/function/02-03syunie1.html
会期:毎年3月1日~15日(日付で固定)
会期中休日:なし
※お松明は3月1日~14日の毎日行われます。
お水送り(小浜市観光協会公式サイト)
http://wakasa-obama.jp/TouristAttract/TouristAttractDetail.php?64
北野天満宮の神紋は梅花際の日が最も輝いて見える
毎年2月25日の菅原道真の命日に、京都・北野天満宮で「梅花祭(ばいかさい)」が行われます。菅原道真が梅を愛したことから、北野・大宰府以外でもほとんど天満宮の神紋が「梅」です。北野天満宮でも1,500本の紅白の梅が見ごろを迎え、「梅苑」は通り抜けを楽しむ人たちでいっぱいになります。
またこの日は毎月恒例の、京都で一二を争う規模の縁日(蚤の市)も行われます。春の到来が近いことを感じさせる京都の風物詩です。
菅原道真の命日2月25日は旧暦の日付で、明治に新暦になるまでは現在より1か月程度遅く梅花祭が行われていたようです。しかし旧暦の命日の日付をそのまま新暦にあてはめると、見事に梅の見ごろの時期と重なります。明治に新暦の日付で梅花祭を行うことを決断した関係者が、このようなマーケティング的な計算をしていたかどうかはわかりませんが、まさに神格化された菅原道真のパワーを感じてしまいます。
梅苑内の茶屋での一服もお忘れなく
この菅原道真のパワーにひきつけられるのか、この日はとても境内が賑わいます。訪れる人のほぼすべての手にスマホかデジカメが握られています。紅白の梅の花びらはとてもきらびやかで、インスタ映えすること間違いなしです。
梅は境内全域に咲いていますが、有料エリアである「梅苑」にも入ることを是非おすすめします。入苑料700円で、主張のある梅の花びらを楽しむことができます。老舗・和菓子屋「老松」が運営する苑内の茶屋では、茶菓子がいただけます。茶菓子代は入苑料に含まれていますのでぜひ。
【公式サイト】 老松
看板にも風格があります
「長五郎餅」は、北野天満宮のみならず京都でも指折りの著名な門前菓子です。境内の臨時売店で販売されています。餡を羽二重餅でくるみ真ん丸にした形は、限りなくシンプルでキュートです。秀吉が催した北野大茶会で秀吉の目に留まり「長五郎餅」と名前を付けてもらったという、とても京都らしくわかりやすい由緒を持つ和菓子です。現在まで400年以上営業を続けていることも驚きです。
【公式サイト】 長五郎餅
こちらも北野天満宮名物「なで牛」
ほとんどの人が行うことはまだあります。境内のあちこちにいる「なで牛」の頭をなでることです。牛は道真との関連を示すいくつかの説があるようですが、いずれにしろ北野天満宮では「神の使い」としてあがめられています。頭をなでると頭がよくなると昔から信じられています。なでられる頭の部分は、鏡のように黒光りしています。
「野点大茶湯(のだておおちゃのゆ)」も行われ、近隣の茶屋街・上七軒の芸妓・舞妓からお茶をふるまってもらえるためとても人気があります。しかし定員3,000名が、10:00~15:00の間に約30人ずつ一斉にいただくので時間は平均5分もありません。当日のチケット入手もほぼ困難なようです。1月25日から神社内で1枚1,500円で販売されますが、早々に売り切れます。
このような「野点大茶湯」の開催情報は神社の公式サイトには一切のせられていません。京都市などの自治体観光サイトにものせられていません。神社に電話で問い合わせる、現場で確認する、個人ブログの記事を参照する、しか情報を入手できません。このように人気イベントの情報提供が充分でないことは、京都のみならず日本全国の寺社や観光施設でよくあります。
- 人気イベントをネットで情報公開すると人が殺到してさばけなくなる
- 地元や常連客にチケットが充分いきわたらなくなる
- マナーが悪い観光客が多くなると困る
- 茶会の本来の目的であるお茶を楽しむことより、芸妓・舞妓からふるまってもらえることばかりがもてはやされる
- 値上げすると客が減ってサービスをよくできるが、値上げははばかられる
様々な理由が考えられますが、マナーなどサービスを受ける側も問題も少なくありません。外国人観光客がこれだけ増えています。日本のあらゆる観光の場で、多様性に向き合う必要があります。特定の人だけでなく、より多くの価値観の異なる人が納得できる仕組みの再構築が、全国で求められています。多様性と向き合うには情報提供が最も有効です。
こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさん。
受験のお守りで最強なのはやはりココ
北野天満宮「梅花祭と梅花祭野点大茶湯(ばいかさいのだておおちゃのゆ)」
http://kitanotenmangu.or.jp/annual_events.php#event_feb
会期:2月25日(毎年日付で固定)
北野天満宮 梅苑
http://kitanotenmangu.or.jp/highlight.php#high_tp1
公開期間:毎年2月初旬~3月下旬
薬師寺にこんな見事な梅がある
奈良・薬師寺は、薬師如来や三重塔など白鳳時代の文化遺産がとても有名ですが、「花」のイメージがありません。多くの寺では季節の花を公式サイトで紹介していますが、薬師寺の公式サイトには花を紹介するページはありません。
しかし冬の今、薬師寺には見事な「梅」が咲き始めようとしています。薬師如来や三重塔の拝観後に、また近隣の唐招提寺の拝観後に、30秒寄り道するだけで見事な梅に出会えます。
薬師寺を訪れる多くの人は、薬師如来や三重塔があり、年中無休の「白鳳(はくほう)伽藍」の拝観だけで帰ってしまいます。白鳳伽藍のすぐ北側、最寄りの近鉄・西ノ京駅から見て左側には「玄奘三蔵院(げんじょうさんぞういん)伽藍」があります。
平山郁夫が、玄奘(げんじょう)がインドまで旅した道のりを描いた圧巻の「大唐西域壁画」が、1年の半分程度、公開されています。西遊記で知られる玄奘は、薬師寺の属する法相宗(ほっそうしゅう)の開祖の師にあたり、玄奘三蔵院も玄奘の分骨を納めるために1991年に建てられたものです。
【公式サイトの画像】 薬師寺伽藍マップ
梅は、玄奘三蔵院伽藍の「お写経道場」前の広場と、お写経道場と西ノ京駅を真っ直ぐ結ぶ“紫色で表示された参道”に植えられています。この広場と参道は無料で自由に入ることができます。白鳳伽藍の「北受付」からも「お写経道場」前の広場にはすぐに行けます。白鳳伽藍内にも梅はありますが、数は少なく、伽藍に入る拝観料が必要です。
2月中旬の西ノ京駅からの参道
1月下旬からつぼみが膨らみ始め、2月中旬には写真のように三分咲きくらいになります。満開ではありませんが、紅白の花びらが冬の澄んだ空のキャンバスに点在している姿も実に味があります。桜と違って、梅は満開でなくても絵になります。
3月上旬には満開になります。花びらの密度がとても濃厚で、見事にミックスされたナチュラルな紅白の花の色を見ると、どこからか鶯の鳴き声が聞こえてきそうです。
3月上旬の西ノ京駅からの参道
薬師寺の「お写経道場」はとても人気があります。薬師寺の白鳳伽藍の再建費用の多くは、写経により蓄えたものです。どれくらい多くの人が写経を行っているかは想像いただけると思います。年中無休で写経ができますが、月に2回、管主の法話が効ける「写経会」もおすすめです。
薬師寺の僧侶はみなさん、とてもお話が上手です。眠くなるようなことはまずありません。修学旅行の小学生にも必ず笑いを取っているくらいです。
3月にはこんなに濃厚に
お水取りで有名な東大寺を筆頭に、奈良の多くの寺では「修二会」が行われます。薬師寺では3月末に行われ、「花会式(はなえしき)」と呼ばれます。その名にあるように、本尊の薬師如来には十種の花が飾られ、漆黒の美しいボディラインがより際立って見えます。
薬師寺もこのように花とは深い縁があります。ぜひ公式サイトに「花の紹介」ページを設けてもらいたいものです。
【公式サイトの画像】 花会式
こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさん。
写経の殿堂・薬師寺の僧による面白解説
薬師寺
http://www.nara-yakushiji.com/index.html
原則休館日:白鳳伽藍はなし
公開期間:玄奘三蔵院伽藍 毎年1/1~1/15、3/1~6/30、8/13~8/15、9/16~11/30
※仏像や建物は、公開期間が限られている場合があります。
南京町の東の入口「長安門」
まもなくアジア最大の祝日である「春節(しゅんせつ)」、中国語で言う旧正月がやってきます。外国人利用者が日本人の二倍以上に達する関西空港では、盆・正月ではなく旧正月が1年で最も国際線利用者が多くなります。東南・東アジアで正月を太陽暦で祝うのは日本だけなのです。
神戸の中華街「南京町」でも恒例の「春節祭」が行われます。中国の祝い事を感じさせるように街全体が真っ赤に染まり、とても華やかになります。
店の前では、中華料理や点心を売るワゴンから立ち上る湯気が、“爆食い”モードのスイッチを入れてくれます。とてもお茶目な中国式の獅子舞や京劇のようなステージイベントも目白押しで、香港や台湾に旅行に行ったような気分にさせてくれます。ぜひ遊びに行ってください。
街の中心の「南京町広場」
神戸と横浜の中華街の規模を、それぞれの公式サイトに掲載されている店舗数で比べると、神戸は横浜の1/5くらいです。こじんまりしているため、横浜のように店が多すぎてどこに入るか迷うようなことはありません。
価格は横浜よりリーズナブル、味付けは関西風であっさりした店が多い印象です。南京町はそもそも広東料理の店が多いことから、シーフードの風味を生かせるあっさりした味付けは特におすすめです。小籠包も、横浜よりあっさり目ですので、ぜひお試しください。
横浜と長崎は「中華街」と言いますが、神戸では「南京町」と言います。長崎は江戸時代から、横浜と神戸は幕末の開港直後から華僑が住む町となりましたが、神戸だけ中華街エリアの中に住む華僑系住民が少なくなっています。
華僑系住民は横浜より神戸の方が多いのですが、神戸では異人館で知られる山の手に多くが家を構えています。華僑が商売の神様として信奉する「関帝廟」も、神戸は山の手にあります。一方横浜は中華街エリアの中に華僑系住民が今も多く暮らし、関帝廟もこの中にあります。この差が中華街の店舗数の差にも影響していると思われます。
実は横浜と長崎も、戦後まもなくまでは「南京町」と呼ばれていました。「南京町」とは日本では長らく「華僑が集まるエリア」という意味でした。戦後の混乱期の治安悪化で「南京町」というブランドイメージが著しく低下したことから、横浜と長崎では「中華街」とブランド名を変えました。
しかしこの動きは神戸では起こりませんでした。神戸の華僑は事業に成功した富裕層が多く、治安が悪化するようなことにはならなかったのです。そのためブランド変更の必要がなく、今に続いています。
獅子舞
【画像出典】南京町公式ガイドブック PDF版
南京町は十字型のメインストリートが交わるところにある「南京町広場」が中心で、ここで様々なイベントが行われます。日本の獅子舞とは全く違う、ゴジラをぬいぐるみにしたようなカラフルな獅子舞が、ドラや太鼓に合わせてここから街中を巡ります。インスタ映え間違いなしです。登場する日時は公式サイトに掲載されていますので事前にご確認ください。
【公式サイト】 獅子舞スケジュール
春節祭は横浜中華街でも行われています。神戸と同じく1986年から始まりました。最寄り駅名にいずれも「元町」が付きます。違いもありますが、共通点も多いのです。東西の中華街の個性をぜひ楽しんでみてください。
誰でも知っているコンビニもここでは中国モード
こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさんあります。
世界中のチャイナタウン取材から華人社会の力強さを分析
2018南京町春節祭
https://nankinmachi.or.jp/event/shunsetsu/2018/
主催:南京町春節祭実行委員会
会期:2018年2月16日(金)~18日(日)
※2月11日(日)にプレイベントが行われます。
原則休館日:なし
横浜中華街「2018春節」
http://www.chinatown.or.jp/event/celebration/201710_01/
会期:2018年2月16日(金)~3月2日(金)
ライトアップされた仁王様
奈良・東大寺で大仏と並んでとても有名な金剛力士像=仁王様は、今にも動き出しそうなほどリアルでなボディラインで高さ8.4mの巨体が表現されています。日本の代表的な仏像彫刻の傑作です。
拝観料不要でお会いすることができますが、門の中で三方を壁に囲まれて安置されているため、日中はお顔がよく見えません。
まもなく始まる恒例イベント「なら瑠璃絵」の期間中、仁王様が夜間ライトアップされ、お顔を鮮明に見ることができます。案外きちんとお顔を見たことがない方は多いでしょう。またとない機会がやってきます。
現存する東大寺・南大門は、1199(正治元)年に再建されたものです。1180(治承4)年の平重衡の南都焼討で焼失したのではなく、平安時代半ばに暴風雨で倒壊したものです。100年以上南大門はありませんでした。
高さ25mで大仏殿の半分ほどですが、天井がなく屋根裏まで見渡せます。大仏殿とは異なる巨大建築の美しさを感じることができます。高さ21mの太い柱18本が巨大な屋根を800年間支え続けている姿は、スケールの大きさを実感できます。とても荘厳です。
この荘厳さは、天井がない、貫(ぬき、柱を貫通する水平材)が多用され頑丈、といった「天竺様(てんじくよう)」と呼ばれた最先端技術によるものです。天竺様は、東大寺の鎌倉復興の立役者・重源が宋で学んで日本に持ち帰った建築技術で、現在は「大仏様(だいぶつよう)」と呼ばれています。
スケールの大きさを実感できる大仏様の中で、現存する最大のものが東大寺・南大門です。じっくり観察する価値が大いにあります。大仏殿も大仏様で建てられていますが、江戸時代の再建です。江戸時代にはすでに巨木の入手が困難だったことから、柱は複数の材木を束ねて作られています。
この頃フランスでもノートルダムやシャルトルといった、世界遺産になっているゴシック様式大聖堂の建造ラッシュが起こっています。建築技術の向上で、高い尖塔とステンドグラスによる大きな窓の装飾を競っていました。ユーラシア大陸の両端で、大きさと美しさをほぼ同時に競い合っていたとはとても興味深いものがあります。
日中は仁王様のお顔が見えにくい
南大門の仁王様は、鎌倉初期の仏師集団・慶派の共同作業で作られたことはよく知られています。1203(建仁3)年にわずか69日間で完成させたという記録が残っています。工房でパーツを作って現場で組み合わせるという、とても合理的な造像手法で作られました。
当時は平重衡の南都焼討で失われた東大寺や興福寺といった復興需要がとてもたくさんありました。そうした膨大な需要に応えるために、慶派は大勢の仏師に同時並行で作業を進めさせる合理的なシステムを構築していたのです。
南大門の仁王様は、早朝や夕方に低い角度で日光がさすこともありますが、下半身にしか光が当たりません。ハトの糞害対策でネットが張られていることもあり、お顔はよく見えません。南大門の仁王様には、800年の風雪に耐えてきたとは思えないほど、表面にはリアルさが残っています。僧たちが清掃を欠かさなかったのでしょう、大切に守られてきたと実感できます。
鹿は夜もたくさんいます
南大門のライトアップは、2月の「なら瑠璃絵」のほか、夏の「ライトアッププロムナード・なら」でも行われます。東大寺を案内するガイドさんは100%、「阿吽の呼吸」の語源が仁王様にあると説明します。日本の歴史や美術を代表する作品がここにあります。ぜひ夜に訪れてみてください。
こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさんあります。
運慶仏と所蔵する寺の徹底ガイド、運慶ファンならずともおすすめ
東大寺 http://www.todaiji.or.jp/index.html
原則休館日:なし
※南大門は、拝観料不要で24時間365日参拝できます。
なら瑠璃絵 東大寺ライトアップ
http://rurie.jp/area/area_02/
会期:2018年2月8日(木)~14日(水)~21:00
ライトアッププロムナード・なら
http://www.lightup-nara.jp/
会期:毎年7月中旬~9月下旬
360度の豆まきはとても爽快
毎年2月2日~3日にかけて、京都市内の社寺では一斉に節分祭が行われます。中でも八坂神社の節分祭は一二を争う人出の多さで、芸妓舞妓が行う豆まきが特に人気があります。福豆を買って福引賞品をもらうのも、すっかり京都の節分の風物詩になっています。
祇園に鎮座する八坂神社には、全国的に著名な祭りが多くあります。7月の祇園祭、お正月のおけら詣りとともに、節分の豆まきはテレビの全国ニュースでもよく取り上げられています。大河ドラマ出演者や相撲力士による成田山新勝寺、芸能人による浅草寺と並んで、とても華やかな豆まきです。
節分とは、四季が始まる日の前日のことで、厳密には年に4回あります。しかし江戸時代になって春の始まる立春以外は廃れ、現在は2月3日として定着しています。なお現代の暦では太陽の位置によって日付を判定するため、年ごとに日付が1日前後する場合があるそうです。
しかし日付は変わっても、季節の変わり目に生じる邪鬼を追い払う行事であることには変わりがありません。豆まきも邪鬼を追い払うために始まった行事です。
八坂神社の豆まきは2日間で都合9回も行われます。人気の高さを示していますが、登壇者が多岐にわたるという点も見逃せません。芸妓舞妓の豆まき登壇は、祇園エリアで芸妓舞妓が所属する4つの組合ごとに行われるため、9回のうち4回です。芸妓舞妓を必ず見たいという方は、詳細スケジュールを公式サイトで確認してください。
【公式サイト】 豆まき詳細スケジュール
芸妓舞妓は豆まきの前に、神への奉納のため舞踊を行います。会場は境内中央の「舞殿」です。正方形の舞殿の周囲を取り囲む協賛するお店や企業の提灯が、豆まきの雰囲気を盛り上げています。
豆まきは四方に向かって行われます。豆をキャッチするためには、各回終了直後には場所取りした方がよいでしょう。しかし少し下がってカメラでナイスショットを狙う場合には、境内が大きいため場所取りに大変な苦労をするようなことはありません。
時間の都合で芸妓舞妓の登壇を見ることができない場合でも、残る5回のうち3回は雅楽・今様・太鼓と獅子舞が登壇します。雅な古典芸能が味わえます。あと2回は近隣のお店の関係者の登壇です。登壇する知人の応援にやってくる人が多くなります。
福豆(300円)
ここで福豆を買う
福引を行える「福豆」も人気です。ほとんどの人が買っていき、複数買う人も珍しくありません。巨額の売上でしょう。“当たり”でもらえる賞品には自転車やテレビもあります。ハズレはなしで、ティッシュのような何がしかの商品を節分用の紙袋に入れてくれます。この紙袋をさげて八坂神社を後にするのも節分の京都の風物詩です。
こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさんある。
同じ伝統行事でも地方によってこんなに違う
八坂神社「節分祭」
http://www.yasaka-jinja.or.jp/
会期:2018年2月2日~3日
昆布だしが効いた上品なお味、昆布茶とよくあう
千本ゑんま堂は、京都市内でも北の方、大徳寺や船岡山の近くにあります。その名の通り閻魔が本尊で、「嘘をつくと舌を抜かれるぞ」と子供に諭しながら自らも戒める庶民の寺として、平安時代から親しまれています。こんにゃくの煮物をふるまう節分と、5月の念仏狂言、お盆の迎え鐘がよく知られています。
千本ゑんま堂は、京都の三代墓地である「蓮台野(れんだいの)」にあり、寺としては平安時代半ばに創建されました。平安京の初めから閻魔を祀る祠があったとする説もあるようですが、墓地である蓮台野はあの世への入口にあたると考えられたため、説としては筋が通ります。
閻魔はよく知られているように、あの世で極楽・地獄どちらに行くかを決める裁判官です。そのため「私のところに来るまでに、悪いことをするな」という戒めの象徴でもありました。千本ゑんま堂は、正式には「引接寺(いんじょうじ)」と言いますが、ほとんどの人は通称で呼びます。それだけ人々に親しまれていると言えるでしょう。
本堂の中は温かい
本堂の中にはとても立派な閻魔様がいらっしゃいます。応仁の乱の焼失後に再建された仏像で、500年間人々に愛されてきました。大人であっても今一度「嘘をつくと舌を抜かれるぞ」と心の中で唱えましょう。2mを超える迫力のある閻魔様にお参りできる機会はなかなかありません。
お参りの後は「こんにゃく煮き(たき)」をお忘れなく。400円でとても京都らしい薄味のだしが効いたこんにゃくをいただけます。寒空を歩いてきたボディをほくほくに温めてくれます。昆布茶もとてもおいしく、昆布の旨味がよく出る京都の「軟水」のありがたさがよくわかります。
京都三大念仏狂言の一つ、千本ゑんま堂の狂言は、5月以外に節分の夜にも行われます。5月は本堂横の特設舞台で行われますが、節分は本堂内で行われます。暖かくてよいのですが、収容人数が多くありません。18:30から配布される整理券をもらい、早めに並ぶことをおすすめします。
三大念仏狂言の中で、千本ゑんま堂は唯一セリフがあります。近くで見えることもあり、室町時代から続く庶民のエンタテイメントを存分に味わえることは間違いなしです。
本堂は節分のハレの飾り
京の名所と町衆の様子を描いた「洛中洛外図」のファンの方も多いと思います。その中で織田信長が上杉謙信に贈った米沢市上杉博物館蔵の国宝「上杉本」には、千本ゑんま堂で演じられる狂言が描かれています。洛中洛外図にはその当時の最新流行が描かれるため、戦国時代にもとても人気があったことがわかります。
京都の街の生き証人のような寺です。あつあつのこんにゃくにも、長い寺の歴史が積み重なっているのです。
こんなところがあったのか。
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千本ゑんま堂
http://yenmado.blogspot.jp/
こんにゃく煮き(京都市観光公式サイト)
会期:2018年2月2日(金)~3日(土)
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/eventdetail.php?event_tab=tradition&eventid=180202104&year=2018&month=2&date=
ゑんま堂狂言、豆まき(千本ゑんま堂大念佛狂言保存会サイト)
会期:2018年2月2日(金)
http://www.geocities.jp/e_kyogen/index.html