行田市郷土博物館前の鎮守の杜に社を置くのは忍(おし)の「諏訪神社」です。
徳川家康公を祀る「東照宮」も合祀されていて、鳥居も二社連名になっています。
三つ葉葵の東照宮。
東照宮
御祭神
徳川家康命(とくがわいえやすのみこと)
松平忠明命(まつだいらただあきらのみこと)
八幡大神(はちまんおおかみ)
例 祭 五月十七日
当社は、家康公の娘、亀姫(かめひめ)が父の肖像を頂き、後に子の松平忠明公に伝え、忠明公が寛永二年(一六二五)、大和国郡山山城内に社殿を造営して、肖像を安置したことに始まる。以来、藩主・藩士崇敬の社となった。その後、移封の都度遷座され、慶応四年(一八六八)鳥羽・伏見の戦いの折、大坂蔵屋敷の東照宮を、当社に合祀した。
社領は、郡山当時より百石を受け継ぎ、明治維新まで続く。その地は、埼玉古墳群の辺りであったと伝えられている。
明治四年(一八七一)、藩主東京移住のために祭祀断絶の危機を迎えるが、旧藩主ら相計り、同七年に下荒井の地より、本丸の一部である諏訪郭内の諏訪神社境内一隅に本殿を移し、同三十三年に藩祖松平忠明公を配祀した。
現在の拝殿は、昭和五年の造営である。
諏訪梶の諏訪神社。
諏訪神社
御祭神
建御名方命(たけみなかたのみこと)
八坂刀売命(やさかとめのみこと)
例 祭 九月二十七日
当社の鎮座したのは、八十二代後鳥羽天皇(ごとばてんのう)の建久(けんきゅう)(一一九〇年頃)の昔、忍(おし)三郎・忍五郎家時等の一族が、館・塁等を築き居住した頃、と言い伝えられている。又「持田村誌(もちだそんし)」には、成田親泰(なりたちかやす)が延徳(えんとく)三年(一四九一)に忍城を構築し、この時、持田村鎮守諏訪社を城鎮守としたのが、当社であると伝えいる。その後、成田氏代代の崇敬があり、寛永十六年(一六三九)、城主となった阿部忠秋(あべただあき)は城郭を修築し、併せて正保(しょうほ)二年(一六四五)、当社の本殿を造営、寛文十二年(一六七二)拝殿を新たに建立した。現在の社殿は、昭和三十六年の造営である。
文政(ぶんせい)六年(一八二三)、松平忠堯(まつだいらただたか)は伊勢桑名から移封するに当たり、城内字下荒井の地へ東照宮を、更に城内へ多度社と一目蓮社を勧請した。これらは明治六年、城郭取り壊しの際、当社境内に移される。又、城内各所にあった小祠、科斗社(しなどしゃ)・八幡社・久伊豆社・荒(こう)神社・春道稲荷大明神・神明社・二の丸稲荷大神・天神社両棟稲荷大明神の九社も、同時に当社へ配祀された。
御朱印も連名です。
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: 東照宮の例祭は「行田春まつり」の行われる徳川家康公の命日「4月17日」と思っていたのですが、いただいた御由緒書には「5月17日」となっていました。境内の案内板も訂正してあったので、何らか理由で変更したのではないでしょうか? ちなみに、日光東照宮も5月。
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