::: テアトル十瑠 :::

1920年代のサイレント映画から21世紀の最新映像まで、僕の映画備忘録。そして日々の雑感も。

『映画編集とは何か-浦岡敬一の技法』を読む①

2008-12-17 | 十瑠の見方
 先月、市立図書館で「カラーパープル」のビデオを借りた時に映画コーナーの書架で見つけ、面白そうだったので併せて借りてきた本だ。
 浦岡氏は松竹で映画編集者として数々の作品の編集に携わってこられた方で、これは映画評論家山口猛氏が雑誌のインタビュー記事をベースに浦岡氏が語ったように書かれたもの。単行本になる際には浦岡氏自身の加筆もあったとのこと。

【浦岡敬一(うらおかけいいち)氏 経歴】
 昭和5(1930)年5月4日、静岡県生まれ。同23年、松竹入社。
 浜村義康に付き、小津安二郎監督作品等の編集助手を勤め、同33年の小林正樹監督「人間の条件」で一本立ち。以後、大島渚を始めとする映画界の新しい流れだった松竹ヌーヴェル・ヴァーグの作品を多く手掛ける。
 昭和44年同社退社。以後フリーで活躍。同58年小林正樹監督「東京裁判」で芸術選奨文部大臣賞受賞。同64年、実相寺昭雄監督「帝都物語」、杉田成道監督「優駿」で日本アカデミー賞編集部門優秀賞受賞。この間、日本映画編集協会の設立に尽力し、第一回編集協会理事長を務めた。(同書より)

*

 若い頃に映画雑誌の影響を受けて、カット毎のカメラアングルやカメラの動き、ショットの構成、カットの繋ぎ方等々を注意して観るような時期があったが、この本を読んでいたら久々に当時の感覚が少し戻ってきた。アメリカン・ニューシネマ以降、複雑なモンタージュ・テクニックが出てきて従来のカット重視の鑑賞に拘っていては楽しめない映画が増えてきたので、以来そういう見方はなるべくしないようにしているが、時にはこういう文章を読まなければいけないとも思った。

 さて、コチラは実際に商売としてフィルムをカットされていたわけだから、単なる思いつきでは作業は出来ない。傍目には華やかな映画界も現場は映画“業界”であり、裏方さんは職人の世界だ。浦岡氏も先輩にテクニックを教わるのではなく、仕事をこなしながら先輩のテクニックを盗んでいったそうである。

 日本では編集作業に対する理解が不足していて、日本アカデミー賞に編集賞が正式に誕生したのは昭和63年で、アメリカでは「或る夜の出来事」が作品賞を獲った1934年に「エスキモー」という作品が編集賞に選ばれているから、実に半世紀の違いがある。日本は1シーン1カメラ、ハリウッドではマルチカメラ方式と撮影の体制が基本から違うので、1シーン1カメラの日本では、編集作業とはフィルムに写されたカチンコの順番通りに繋げば良いくらいにしか思われてなかったのだろう。ところが、この本を読んでいると、そんな簡単なものでは無い事が分かってくる。フィルムは1秒間に24コマの画があるわけだが、編集とはこのコマの数を気にしながらのカットなのである。
 例えば、小津作品では一人の台詞の終わりと次の人物の台詞の始まりがおおよそ何コマ離れているか、などということがある程度決まっていてそれが小津映画のリズムになっている。そんなことまで把握しながらフィルムのカットや繋ぎをしているのだ。勿論、画一的にやっているわけではなく、状況に応じて変化球も加える。
 オーバーラップやフェードのかけ方も編集者の腕一つで印象が違うし、場合によっては画の追加撮影を注文することもあったらしい。僕の感覚では、編集作業は監督と打ち合わせながらやっているのかと思っていたが、事前に監督との摺り合わせはあっても、作業室の中では編集者の感覚により繋いでいくことが普通だったようだ。
 篠田正浩監督と組んだ時のエピソードも面白かった。「乾いた湖」という映画を撮った時に、あるシーンについて監督が編集をやらせて欲しいと言ってきたので「どうぞ」とフィルムを渡した。別途にポジを焼いて浦岡氏も編集したが、出来上がったものを比較して、やはり餅は餅屋だとの結論になったという。

 一本立ちしたのが小林正樹監督の「人間の条件」。昭和29年の小林監督の「三つの愛」の予告編を浦岡氏が編集して、それを見た監督が気に入って指名してきたらしい。
 「人間の条件」の編集に入る前に、監督から「何回シナリオを読んだんだ?」と聞かれ、一度しか読んでいなかったのに「三回読みました」と嘘をついたら「馬鹿モン! 俺の映画では、十回も十五回も台本を読んで、しっかり頭にたたき込むまでフィルムは切るな!」と叱られた。発憤した浦岡氏は、ラッシュのショットを全て頭に入れて台本にカット割りを書き込んでから作業に入った。以後の作品に関して、氏は台本に全てのカット割を書くようになり、それは松竹の他の編集者も真似するようになったとのことだった。

 沢山の大島作品に関わったが、最初の作品は監督二作目の「青春残酷物語」だった。意外だったのは、大島監督が編集にあまり口を出さないタイプの人だったことで、浦岡氏はこれが編集者としての自立が始まった画期的な作品だと言う。フィルムを渡した後は好きなようにやらせてくれたので、今までのように単にカットナンバー通りに繋げるのではなく、自分なりにモンタージュする事が出来た。大島作品には従来の美しいだけの松竹映画とは違う刺激的な画が多く、浦岡氏の編集を試しているような所もあったよし。この頃からエイゼンシュタインやプドフキン等のモンタージュ論を勉強しだした。

 その他には、山田洋次、中村登、深作欣二、井上梅次、今村昌平、各監督とのエピソードもあった。フリーになって最初の映画は、寺山修司の「書を捨てよ町へ出よう」だったそうだ。

(続く)

*

 ネットで検索したら、<浦岡敬一氏死去 映画編集者>とのニュースがあった。

<浦岡 敬一氏(うらおか・けいいち=映画編集者)24日午後、静岡県内の病院で死去、78歳。静岡県出身。葬儀・告別式は28日午後1時から静岡県下田市西本郷2の23の1、博愛社第2ホールで。喪主は妻ユキ子(ゆきこ)さん。後日、東京都内でしのぶ会を開く予定。
 日本映画編集協会(現・協同組合日本映画・テレビ編集協会)の初代理事長などの立場で、映画編集者の地位確立に努めた。代表作に「東京裁判」「優駿」など。>(2008年11月25日 西日本新聞)

 なんというタイミングか。
 謹んで、ご冥福をお祈りする。合掌

 尚、今回の本は1994年に発行されたものである。

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