こんにちは、今回も投稿が遅れて申し訳ないです。かねこです。
さて、野球界のスーパースター、イチロー選手が引退されました。
私はイチロー選手が大好きだったので、最後の試合のあとに少し感傷に浸りました。
それでも数々の記録と記憶を残してくれたイチロー選手には感謝の気持ちと労いの気持ちしかありません。
イチロー選手、本当にありがとう。お疲れさまでした。
さて、三重県にはイチローにも負けず劣らずのレジェンド野球選手がいました。
ご存知でしょうか。
ヒントは
巨人の永久欠番の14番。
投手として最高の選手に送られる賞の名前としても有名。
27歳の若さで戦死。
と言えば、ピンと来る方もいますか?
そう、「沢村栄治」投手です。
日本野球と天と地ほどの差があったアメリカベースボールに唯一互角以上に戦えた選手です。
あのベーブ・ルースからも三振を奪ったことでも有名です。当時、沢村投手は17歳。
その頃の日本の野球はプロ野球ではなく、職業野球という現在のプロ野球の前身の興行が始まるところでした。
沢村投手は東京巨人に入団します。
投手の中で初のノーヒットノーランを達成し、その後一回目の日本シリーズというべき戦いで、
大阪タイガースを下し、初の日本一に輝きます。
その翌年もノーヒットノーランを達成、24勝で防御率0.81という驚異的な数字を記録し、史上初のMVPに選ばれました。
残っている映像の解析では150km以上の速球を投げていたと言われています。
それほどの大投手。
しかし、その後は日中戦争に従軍。
手榴弾の投げすぎで肩を壊し、さらにマラリアにもかかるという不幸に見舞われます。
球界復帰後は、故障の影響からオーバースローからサイドスローに転向するも、3度目のノーヒットノーラン達成。
ところが、またしても戦争に召集されます。
球界復帰後はサイドスローも投げられず、アンダースローに転向するも、制球力がなく、巨人から解雇されます。
そして引退へ。
野球を諦めたところへ3度目の戦地へ召集されます。
そして、戦地のフィリピンへ向かう船が撃沈され、戦死をしてしまいます。
1944年、27歳没。
生涯成績は63勝22敗、防御率1.74。
1947年には日本野球史上初の永久欠番。14番。
そして、その年度の最高の投手に送られる賞は「沢村賞」と名付けられました。
そんな沢村栄治投手は現在の伊勢市宇治山田の出身です。
今年の5月中旬に宇治山田駅の駅前に沢村栄治投手のブロンズ像が設置される予定だそうです。
日本球界の最初にして最高の投手です。野球ファンは必見ですよ。
参考HP ↓↓↓
https://www.sankei.com/west/news/190117/wst1901170009-n1.html
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