平成24年度世田谷区予算案に賛成の立場から減税世田谷あべ力也意見開陳
ギリシャなどの地中海沿岸を中心とした諸国の財政危機を身近で感じながら、イギリスのキャメロン政権が大胆な財政再建策を打ち出し、内閣支持率を下げながらも粛々と実行を始めています。掲げるのは「ビックソサエティ」というコンセプトです。
これは、政府の規模は行政改革で小さくする方向で、その代わりにチャリティ(いわゆるNPO)自治会等を充実強化することによって社会のセフティネットを構築していく考え方です。そのための財源として着目したのは、預貯金だけではなく、土地、建物、特許権など成熟社会では眠っている資産を活用することです。
こうしたことは、人口減少、超高齢社会、成熟社会の日本でも応用可能なコンセプトのように思われますが、今の世代の票ほしさに、問題の先送りを続ける日本と違って、国民主権の国民とは、過去及び現在、そして将来の国民であることを分かっているイギリスの政治家は、今の世代には苦くとも、「将来の世代を含め国民全体の利益」「言葉の本当の意味での国益」を踏まえた政治的決断を行なっています。
同じ議院内閣制を取りながら毎年首相が代わる日本では、中長期的な政策はとりがたいのが現状です。イギリスのようにサッチャー、メ-ジャー、ブレア、ブラウンそしてキャメロンと30年強で5人目の首相(平均在任期間6年強)という国に日本も変わるべきではないでしょうか。
リーマンショック後、新興国の台頭や、先進国の財政危機が目立つようになった中で、先進国日本の「政府像」はどうあるべきなのか?改めて考えてみなければなりません。ひとつの答えとしての首相公選制へのアプローチには、憲法の改正も視野に入れなければなりません。
一方、地方に目を転じると、周知の通り、憲法の92条でいう「地方自治の本旨」とは何かが、法律の何処にも規定がありません。通説では、地方自治は国からあたえられるものだから、国が制約を課しても構わないとされています。先ずこうした考え方を改めさせなければなりません。政府による今般の地域自主性一括法は、国と地方の関係の本質は何も変わらず、結果として条例そのものの価値を低下させ、義務付け・枠付けの緩和に係る地方分権改革推進委員会の戦略は失敗であったと言わざるをえません。真に地方が自主自立を勝ち取るためには、憲法を始め地方自治法とその関係法令の見直しによる国と地方の形そのものの制度設計を再構築しなければなりません。また、自治体がすべての公共サービスを、画一に提供するフルセット主義は、見直す必要があります。
政策の善良なトレードオフは、持続可能性というインセンティブをもたらします。持続可能な選択とは何か。宮脇淳(北海道大学公共政策大学院院長)が興味深い例を紹介しています。
フランスの小規模な自治体では、1週間に2日しか窓口が空かないというところがあります。「健康な人は窓口が開いている時にきてください。窓口の開いていない残りの平日は、窓口まで来られない人のところに役所が行きます」というわけです。こういわれるとなかなか反論ができない。
高齢あるいは病気などの理由から自分では窓口まで行けない人のために、自分で来られる人は一定の「負担」をする。24時間自分が好きな時に役所に行けるようなサービスの拡大を求めるのではなく、自分から時間を限定し、その分の職員の時間を来られない人のために割くという考え方です。地域のコミュニティにおいては、こうした考え方が必要になってくると思います。
さて、地方議会は今、危機に瀕しているといわれます。その理由は、いくつかありますが、住民参加が徐々に拡大してきていること、それから住民訴訟が増えていることなどが影響しています。住民参加がなぜ危機なのかというと、住民参加は縦割り行政の隙間を埋めるよい手段となりますが、たまたま触れた声を聞くだけでは、ポピュリズムの構造に陥ってしまうからです。これでは政策が一貫性を失い、失敗の連鎖が続くことになります。真の住民参加とは、住民に権限を与えると同時に、責任を分担してもらうことであり、単なるアリバイ作りの住民参加からの転換が必要です。実現には、首長も議会も相当な覚悟が必要です。
つまり住民と議会は、よい意味での競争関係になくてならないのです。
住民訴訟の増加も議会にとっては脅威です。第三セクターの破綻が訴訟になった場合、行政側も議会もそれを適切なものとして判断した責任が問われます。
敗訴しないためには、ひとつの政策を議決するときどれだけの議論をきちんとしたかが、司法的な判断や責任問題の重要な検証素材になることは言うまでもありません。地方議会は、競争と質の向上が求められているということです。いつまでも議論していて結論が出ないのでは困るので、多数決の原理では、より多いひとたちの意見を優先します。ただし、多数決で決まったから正しいとは限らない。だから、少数者に耳を傾ける。民主主義の原則とはそういうものです。議会の責任とは何か、議会できちんとした説明のできる議論がされたかということであり、議論には理念が必要です。これが「公理」です。
政治における正義というのは、時の権力が選んだ選択肢です。政治によって政策上の「正義は変わる」ということも肝に銘じなければなりません。
また、行政と議会との馴れ合い、もたれあいの関係も正さなければなりません。より開かれた情報公開の徹底のためにも情報公開条例の改定を提案しておきます。
大阪の橋下市長の政治手法が全国的に関心を集めたのは、「大阪都」構想です。これに刺激されて愛知県と名古屋市による「中京都」新潟県と新潟市の「新潟州」などの案も議論されるようになりました。
人口100万以上の政令都市を、府県から独立した「特別自治市」にしようという主張も注目されています。すでに都区制度という不完全で唯一の大都市制度を持つ東京は、夜間人口4万8千人の千代田区から、83万人の世田谷区まである現状について、思い切った統廃合によって行政経費を節減するべきだといった主張が改めて聞かれるようになっています。
大阪都構想が、東京を含めた大都市自治のあり方について問題を提起したことは、評価しなければなりません。地域それぞれの特色に応じた自治制度に改める時です。
東日本大震災が発生してから1年が経過しました。この間、国際的にも最大級の災害に対する日本国民の秩序だった行動に世界が驚き、賞賛の声があがったということは日本の強みのひとつです。
ただ、国民のガバナビリティの高さに比べて、政治家のガバナンスのお粗末さ、特に民主党内閣の体たらくは、日本の弱点としてしっかり自覚し、国政の建て直しにも配慮すべきです。政府と自治体の公的債務残高が1千兆円を超え、社会保障費も毎年1兆円増加する中で、制度設計を変えずに、ギリシャの二の舞になるまいと、国債金利抑制のためだけに、消費税増税ありきで、この国の将来のデザインを提示しようとしない現政権の政策に正当性を感じないのは私だけではありません。
おそらく、今の日本は国債の金利が1パーセント上昇しただけで、政府の予算編成は困難です。消費税増税は、まさに急場しのぎの付け焼刃に他なりません。
本年2月に出された民間事故調の報告書は、当時の菅首相の「官邸の現場介入が原子力災害の拡大防止に役立ったかどうかは明らかでなく、むしろ無用の混乱と事故が発展するリスクを高めた可能性も否定できない」と結論づけています。いずれ歴史という法廷で裁かれることでしょう。
これらの教訓から、近い将来、起ると予想される首都直下型地震に万全の備えをしなければなりません。また、大規模災害時の地方議会及び議員の果たすべき役割は何かについて考えてみることが必要です。
議会事務局と災害対策本部が、緊密に連絡を取り合うことで共有化を図る方法もあるし、以前私も議会で提案しましたが、大田区のように、区災害対策本部に区議会議長が入り、情報共有を行なうことも効果的です。
いづれにしても、われわれは、国も地方もパラダイムシフトと制度的補完体制の打破による新しい国家秩序を早急に形成しなければなりません。それには、政治にかかわる者ばかりではなく、国民一人ひとりがこの国の危機感を共有するとともに、変わることが求められています。
ギリシャなどの地中海沿岸を中心とした諸国の財政危機を身近で感じながら、イギリスのキャメロン政権が大胆な財政再建策を打ち出し、内閣支持率を下げながらも粛々と実行を始めています。掲げるのは「ビックソサエティ」というコンセプトです。
これは、政府の規模は行政改革で小さくする方向で、その代わりにチャリティ(いわゆるNPO)自治会等を充実強化することによって社会のセフティネットを構築していく考え方です。そのための財源として着目したのは、預貯金だけではなく、土地、建物、特許権など成熟社会では眠っている資産を活用することです。
こうしたことは、人口減少、超高齢社会、成熟社会の日本でも応用可能なコンセプトのように思われますが、今の世代の票ほしさに、問題の先送りを続ける日本と違って、国民主権の国民とは、過去及び現在、そして将来の国民であることを分かっているイギリスの政治家は、今の世代には苦くとも、「将来の世代を含め国民全体の利益」「言葉の本当の意味での国益」を踏まえた政治的決断を行なっています。
同じ議院内閣制を取りながら毎年首相が代わる日本では、中長期的な政策はとりがたいのが現状です。イギリスのようにサッチャー、メ-ジャー、ブレア、ブラウンそしてキャメロンと30年強で5人目の首相(平均在任期間6年強)という国に日本も変わるべきではないでしょうか。
リーマンショック後、新興国の台頭や、先進国の財政危機が目立つようになった中で、先進国日本の「政府像」はどうあるべきなのか?改めて考えてみなければなりません。ひとつの答えとしての首相公選制へのアプローチには、憲法の改正も視野に入れなければなりません。
一方、地方に目を転じると、周知の通り、憲法の92条でいう「地方自治の本旨」とは何かが、法律の何処にも規定がありません。通説では、地方自治は国からあたえられるものだから、国が制約を課しても構わないとされています。先ずこうした考え方を改めさせなければなりません。政府による今般の地域自主性一括法は、国と地方の関係の本質は何も変わらず、結果として条例そのものの価値を低下させ、義務付け・枠付けの緩和に係る地方分権改革推進委員会の戦略は失敗であったと言わざるをえません。真に地方が自主自立を勝ち取るためには、憲法を始め地方自治法とその関係法令の見直しによる国と地方の形そのものの制度設計を再構築しなければなりません。また、自治体がすべての公共サービスを、画一に提供するフルセット主義は、見直す必要があります。
政策の善良なトレードオフは、持続可能性というインセンティブをもたらします。持続可能な選択とは何か。宮脇淳(北海道大学公共政策大学院院長)が興味深い例を紹介しています。
フランスの小規模な自治体では、1週間に2日しか窓口が空かないというところがあります。「健康な人は窓口が開いている時にきてください。窓口の開いていない残りの平日は、窓口まで来られない人のところに役所が行きます」というわけです。こういわれるとなかなか反論ができない。
高齢あるいは病気などの理由から自分では窓口まで行けない人のために、自分で来られる人は一定の「負担」をする。24時間自分が好きな時に役所に行けるようなサービスの拡大を求めるのではなく、自分から時間を限定し、その分の職員の時間を来られない人のために割くという考え方です。地域のコミュニティにおいては、こうした考え方が必要になってくると思います。
さて、地方議会は今、危機に瀕しているといわれます。その理由は、いくつかありますが、住民参加が徐々に拡大してきていること、それから住民訴訟が増えていることなどが影響しています。住民参加がなぜ危機なのかというと、住民参加は縦割り行政の隙間を埋めるよい手段となりますが、たまたま触れた声を聞くだけでは、ポピュリズムの構造に陥ってしまうからです。これでは政策が一貫性を失い、失敗の連鎖が続くことになります。真の住民参加とは、住民に権限を与えると同時に、責任を分担してもらうことであり、単なるアリバイ作りの住民参加からの転換が必要です。実現には、首長も議会も相当な覚悟が必要です。
つまり住民と議会は、よい意味での競争関係になくてならないのです。
住民訴訟の増加も議会にとっては脅威です。第三セクターの破綻が訴訟になった場合、行政側も議会もそれを適切なものとして判断した責任が問われます。
敗訴しないためには、ひとつの政策を議決するときどれだけの議論をきちんとしたかが、司法的な判断や責任問題の重要な検証素材になることは言うまでもありません。地方議会は、競争と質の向上が求められているということです。いつまでも議論していて結論が出ないのでは困るので、多数決の原理では、より多いひとたちの意見を優先します。ただし、多数決で決まったから正しいとは限らない。だから、少数者に耳を傾ける。民主主義の原則とはそういうものです。議会の責任とは何か、議会できちんとした説明のできる議論がされたかということであり、議論には理念が必要です。これが「公理」です。
政治における正義というのは、時の権力が選んだ選択肢です。政治によって政策上の「正義は変わる」ということも肝に銘じなければなりません。
また、行政と議会との馴れ合い、もたれあいの関係も正さなければなりません。より開かれた情報公開の徹底のためにも情報公開条例の改定を提案しておきます。
大阪の橋下市長の政治手法が全国的に関心を集めたのは、「大阪都」構想です。これに刺激されて愛知県と名古屋市による「中京都」新潟県と新潟市の「新潟州」などの案も議論されるようになりました。
人口100万以上の政令都市を、府県から独立した「特別自治市」にしようという主張も注目されています。すでに都区制度という不完全で唯一の大都市制度を持つ東京は、夜間人口4万8千人の千代田区から、83万人の世田谷区まである現状について、思い切った統廃合によって行政経費を節減するべきだといった主張が改めて聞かれるようになっています。
大阪都構想が、東京を含めた大都市自治のあり方について問題を提起したことは、評価しなければなりません。地域それぞれの特色に応じた自治制度に改める時です。
東日本大震災が発生してから1年が経過しました。この間、国際的にも最大級の災害に対する日本国民の秩序だった行動に世界が驚き、賞賛の声があがったということは日本の強みのひとつです。
ただ、国民のガバナビリティの高さに比べて、政治家のガバナンスのお粗末さ、特に民主党内閣の体たらくは、日本の弱点としてしっかり自覚し、国政の建て直しにも配慮すべきです。政府と自治体の公的債務残高が1千兆円を超え、社会保障費も毎年1兆円増加する中で、制度設計を変えずに、ギリシャの二の舞になるまいと、国債金利抑制のためだけに、消費税増税ありきで、この国の将来のデザインを提示しようとしない現政権の政策に正当性を感じないのは私だけではありません。
おそらく、今の日本は国債の金利が1パーセント上昇しただけで、政府の予算編成は困難です。消費税増税は、まさに急場しのぎの付け焼刃に他なりません。
本年2月に出された民間事故調の報告書は、当時の菅首相の「官邸の現場介入が原子力災害の拡大防止に役立ったかどうかは明らかでなく、むしろ無用の混乱と事故が発展するリスクを高めた可能性も否定できない」と結論づけています。いずれ歴史という法廷で裁かれることでしょう。
これらの教訓から、近い将来、起ると予想される首都直下型地震に万全の備えをしなければなりません。また、大規模災害時の地方議会及び議員の果たすべき役割は何かについて考えてみることが必要です。
議会事務局と災害対策本部が、緊密に連絡を取り合うことで共有化を図る方法もあるし、以前私も議会で提案しましたが、大田区のように、区災害対策本部に区議会議長が入り、情報共有を行なうことも効果的です。
いづれにしても、われわれは、国も地方もパラダイムシフトと制度的補完体制の打破による新しい国家秩序を早急に形成しなければなりません。それには、政治にかかわる者ばかりではなく、国民一人ひとりがこの国の危機感を共有するとともに、変わることが求められています。