1月16日(火)最低/最高気温予報 -2℃/4℃
朝5時に目覚める。NHKラジオ深夜便も、疲れている日は耳になじまない。
昨日は町会でお世話になったOさん(86歳)の火葬と通夜で、お休みをいただいた。
娘たちがグループホームから帰宅して施設に通うので、その送迎もあり、慌ただしかった。
寒くなると身体が強張るのか、腰が痛くなりやすい。
火葬は13時からで、マイクロバスなのだが3人しか乗らなかった。
斎場で元社協事務局長で前法人理事だったKさんに会い、通夜に行くとき乗せてほしいと言われたので快諾する。
亡くなったOさんが、様々な要職を担った方でもあり、町会の叙勲者のお一人でもあってか
参列者は多かった。火葬の時間、休憩室にてサイクリングメンバーや、町会の方々と話をして過ごした。
実はこのOさんの逝去の余波が、この数日の微妙な変化となって私に届き始めていた。
隣に住むTさん(85歳)は前町会長で、社協の会長でもあった方。そして私の法人立ち上げ時の、理事でもあった。
そのTさんが久しぶりに我が家の玄関に立っていた。用件はOさんの亡くなる前に、これまで老人クラブの会長を務めており、
代わりの方が会計をやっていたので、今度はその方(Mさん)が会長に就任するという。その結果会計を務める方がおらず、
私に白羽の矢が・・・。
私は町会の獅子踊保存会の会計も依頼されそうなので、いったんは難しいことをお伝えするも、Tさんの困った表情を見れば、
そう強くは言えなかった。
お隣のTさんが依頼に来ると、まずは断れない。5年前の町会のお山参詣を65年ぶりに復活させてほしいという依頼で、
その活動資金の捻出のために補助金申請(市の1%補助金50万円)を行うなど結果的には3年間も継続したことになる。
そのほか社協会長時代に、役員の敬老会での寸劇を演出してほしいとお云う依頼で、結果的には10年以上もその任を担ってきたのである。
亡くなられたOさんは民生児童委員の会長であった時に、私も主任児童員を13年間務めた。その後ご縁もあって、Oさんの笑い声を聞いて、
あの「水戸黄門」を数年間継続した。そして次の会長の代になっても依然として、継続していることでもある。
私の困難は私の力となって、これまでの私を引っ張ってくれた。地元の人間でないこともあって、よそ者扱いされた時代を考えれば、
今は町の審議委員、監査監事としてもようやく認められつつあるのだ。
社会貢献が私の往林期という年代の目標課題でもある。私が障碍者世帯・高齢者世帯の屋根の雪下ろしをボランティアで組織するときも
Oさんが地元町会から活動しようとしている私をメンバーを募ってご自身も協力してくださったのだった。
私の企画した、韓国ソウル市への障害者福祉視察旅行も、民生児童委員一行とご一緒させていただいた。
100歳まで生きるという目標をOさんは現実のものにしようとしていたのだが、すい臓がんが見つかって86歳を享年とされた。
「安らかにお休みください、お疲れさまでした」と祭壇の笑顔のOさんにむかってお祈りをしてお別れしました。
朝5時に目覚める。NHKラジオ深夜便も、疲れている日は耳になじまない。
昨日は町会でお世話になったOさん(86歳)の火葬と通夜で、お休みをいただいた。
娘たちがグループホームから帰宅して施設に通うので、その送迎もあり、慌ただしかった。
寒くなると身体が強張るのか、腰が痛くなりやすい。
火葬は13時からで、マイクロバスなのだが3人しか乗らなかった。
斎場で元社協事務局長で前法人理事だったKさんに会い、通夜に行くとき乗せてほしいと言われたので快諾する。
亡くなったOさんが、様々な要職を担った方でもあり、町会の叙勲者のお一人でもあってか
参列者は多かった。火葬の時間、休憩室にてサイクリングメンバーや、町会の方々と話をして過ごした。
実はこのOさんの逝去の余波が、この数日の微妙な変化となって私に届き始めていた。
隣に住むTさん(85歳)は前町会長で、社協の会長でもあった方。そして私の法人立ち上げ時の、理事でもあった。
そのTさんが久しぶりに我が家の玄関に立っていた。用件はOさんの亡くなる前に、これまで老人クラブの会長を務めており、
代わりの方が会計をやっていたので、今度はその方(Mさん)が会長に就任するという。その結果会計を務める方がおらず、
私に白羽の矢が・・・。
私は町会の獅子踊保存会の会計も依頼されそうなので、いったんは難しいことをお伝えするも、Tさんの困った表情を見れば、
そう強くは言えなかった。
お隣のTさんが依頼に来ると、まずは断れない。5年前の町会のお山参詣を65年ぶりに復活させてほしいという依頼で、
その活動資金の捻出のために補助金申請(市の1%補助金50万円)を行うなど結果的には3年間も継続したことになる。
そのほか社協会長時代に、役員の敬老会での寸劇を演出してほしいとお云う依頼で、結果的には10年以上もその任を担ってきたのである。
亡くなられたOさんは民生児童委員の会長であった時に、私も主任児童員を13年間務めた。その後ご縁もあって、Oさんの笑い声を聞いて、
あの「水戸黄門」を数年間継続した。そして次の会長の代になっても依然として、継続していることでもある。
私の困難は私の力となって、これまでの私を引っ張ってくれた。地元の人間でないこともあって、よそ者扱いされた時代を考えれば、
今は町の審議委員、監査監事としてもようやく認められつつあるのだ。
社会貢献が私の往林期という年代の目標課題でもある。私が障碍者世帯・高齢者世帯の屋根の雪下ろしをボランティアで組織するときも
Oさんが地元町会から活動しようとしている私をメンバーを募ってご自身も協力してくださったのだった。
私の企画した、韓国ソウル市への障害者福祉視察旅行も、民生児童委員一行とご一緒させていただいた。
100歳まで生きるという目標をOさんは現実のものにしようとしていたのだが、すい臓がんが見つかって86歳を享年とされた。
「安らかにお休みください、お疲れさまでした」と祭壇の笑顔のOさんにむかってお祈りをしてお別れしました。
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