時代の問題、だろうか。
自分の思想的には、子供は親を選んで産まれてくる。
ただもちろん?常識的判断として親の側にも選択権は有る訳だ。当然の様に、「良い子」それが欲しい、と言うのは衝動である。その時、”そこ”にやってきた魂がある。
普通?は、或いは天使役、というか、宗教の問題だろう、「紹介」が有るのだ、とは思う。宗教的に言って問題ないので、この子どうでしょう?しかし、すると否定される子供、と言うのは当然、出てしまう訳だ。
主観的判断として、「この子は生前、女性を強姦致死したが権力者の子供だったので、その辺を隠蔽され罪を免れている、今もその辺を悪いと思っていない」という子を、受け入れるか?だ。産まれた後、かなりの高い確率で、再犯の可能性がある?それはちょっと、勘弁して貰いたい。
…と言う、それは、結局は「受け入れ先が無くなる」訳だ。どうなるのか?と言う観点で、宗教的には少しの猶予がある、「地獄」或いは天国。魂が停留する場所、という事だろう、そう言うのが「宗教によって」形成されており、そこで、適当を待つ、と言う事には成る。地獄落ちしたそれは、相応の苦しみを味わう事で、罪を免罪される、のだが。
地獄の不備、というべきか、現代にはテレビゲームと言うのがあり、「如何なる苦しみか?」と言うのを、ちょっと体感してしまっている部分が、多々ある。
ぶっちゃけ、”慣れの問題”である。「Getting Over It」と言うゲームが有るが、アレをクリアするまでやらされる、様な物、だ。無意味を繰り返す果てに、その自身の罪が如何なる無駄だったか?を理解していく、と言う感じだろうかしかし。まず、「条件を満たす為には」という前提あっての話だ、「じゃあこの宗教辞めます」とすれば、別に地獄を通る必要はない。「元の世界に帰れませんが」「何か問題でも?」と言う反応をされれば、宗教は実は、それ以上を問えないのだ。
彷徨える魂が、しかし産まれない訳じゃない。
地獄と言うのはあくまでも宗教観に過ぎない。
その場の両親と、子供、それが同意した時点で、それはそこに誕生する。
宗教的な感覚は、その後の様々な面倒を避けたい、だけであって。
とは言え、インターネットが発展した現代、である。
世間の、望む多くの一般的な家庭が如何に無宗教でも、適当な学?理解はある訳だ。そして、或いは文化的な発展の結果、昔なら宗派以外は得られなかった「紹介」が、全く関係なくても行われる、事には成る。しかし。
誤魔化して突破しようとしても、上記の様な説明をしにくるお節介?が、実はいっぱい居る訳で。
「やめた方が良いよその子、超極悪だから」
そう言われるだけで、やはりちょっと待って、そう言う事には成る。
実は面倒な事態がある。
本当に、「受け入れ先が無くなる」訳だ。
この、「宗教に関与してない」場合、死んだら即、この「次の生を目指せる」訳だが、文化的な生活をしてる限りは、「どんな子?」と言う疑問はまず問われる。見れば解る、のだろう。「貴方は、ちょっと」そう言われるそれは、結局は何処にも出口が無くなる、訳だ。本当に、彷徨える魂に成る。
逆に言えば、この存在を「殺す」と、世間では強姦事件が発生しかねない、訳だ。それを懸念するなら、その人物は殺した方が良い!としても、その先が、無い。
「憎まれっ子世に憚る」とは言う、その理由、だろうか。
OGA「バダッド」
今の懸念として、過去の「特攻隊」その兵士ら、その感覚?は、この「憎まれっ子」に成ってしまう、感じが、或いはどうもある。なので、言えば「特攻隊がある」なら?”彼ら”はその先に必要性がある、訳だ。次の未来に”それ”は有るのか?と言うと、ここでも問題はある、次の未来として予定されてる環境には「戦争が無い」のである。ただ、底には「紛争解決機構」それはある。
じゃあ、”そこ”に「特攻隊」その居場所を創ったら?
”彼ら”のその衝動、理解、それは、そこで昇華するのだろうか?その未来なら、彼らのその罪は、或いは有益な何か、と成るのだろうか。その結果は、何を?
試行錯誤は、続く。