世界卓球で、審判の誤審が有った。
ただ、審判はそれを認めていない。
プレイヤーも、視聴者も、見て解るレベルで、「ネット」球がネットに当たった、の条件を何一つ満たしていないにも関わらず、だ。
”これ”がまだ、通用するパワー?を、向こうは持っている…訳で。
道理としては、勿論、通らない。
見て解るレベルの誤審だ、それは、ダメだ。
しかし、規約上では審判にまだ、多くの特権が与えられていて。
こういうアナログ判定で、場を白けさせ勝敗を覆す、そう言う事は出来てしまう。
この問題が、実際には平成で続いた「ガンダムの曖昧さ」その原理ではあって。
最後は、この審判の様に、そこに居る存在の、胸先三寸なのだ。
単に、昭和では、その審判がかなり良識的に判定してくれた、信頼できる存在だったに過ぎない。
平成に成って、”これ”がかなり歪んでしまって、結果で経済は崩落した。誤審だらけのスポーツ大会など見に行く価値があるだろうか?それは重い話。
そして今もそうだが、それはまだ、中国側に、見て解るレベルで偏っている訳だ。
ともかくはっきりする事としては、「アナログよりデジタルの方が、この場合は上に有る」それは、この場合の真実、ではある。
残念ながら、ガンプラは最終的な紛争解決機構としては、不足が有る訳だ。
テレビゲームでは、誤審?と言うのは”基本的には”有り得ない。チートや裏技は、明らかなバグだ。それは事前にシステムレベルでの査定が有り得て、その先には、審判の歪みは無い。
野球その他、スポーツで、誤審は付き物だ。そして今回ハッキリした事で、国際的なスポーツは、「視聴者の眼」と言うのを、基本的には当てにしてないと言う事だ。
この辺、今までのアインシュタインの、あの「観察者」その価値感かもしれない。
”見ている存在”こそが、その存在の是非を決めているのだ。その存在こそ神である。
それは理解として歪んでいく。その神に成れれば、様々な物が自由に成る訳だ。
その果てに、原爆は落ちて、王の権威は、「根元的な審判役」は、日本に移動した。
平成は、曖昧に成ってしまって。その後遺症の様な物は、今回の様な時、不意に発生はする。
一応、このまま卓球がこの判定に対して何らかのアクションを取らない限りは、スポーツは最終的な紛争解決機構、そこには届かない、訳だが。アナログでは、不正がある。
それはもちろん、ガンダム、ガンプラでも同じ訳だが。
自分としては問題ない帰結、「電影旅団オーガは必要であり、そして最上位の決定機構である」その証明、その一つではあるのだけど。
しかし、”マスコミ”はまだ、戦えるのだ。