神の判断は正義か否か。
多少の?ストレスは有る。主に創作者の”それ”だ。ケースバイケースとは言え、色々追及していくとつまり最終的には「サイコロの出目に納得出来ない」のだけど。
その悪い例が、スキージャンプの葛西選手では、ある。
自分が良い成績が出せなかったのは、競技の環境が悪かったからだ。
あげちうを取り巻く?問題の全てが、実は”ここ”に集約しているのかもしれない。
現状、「大賀さん」紛争解決機構が有り、実際に仮想の”戦争”が出来る状態で。
その時、最終決着は”そこ”で付ける事が出来る、右か左か?それは確定していて。
その上で?「選択された方向」それを持つ人々の判断が、全体の決定になるのだが。
その、最終的な判断をする人が、言う。
「ともかくサイコロで奇数が出たから、上の方」
貴方は下の方なので、今回は諦めて。
理屈の上では、”これ”に逆らい実際に行動を起こす、それがテロになる訳だが。
題材が「なんで自分の作品はウケないんです?」からの、その行動であって…そして選ばれない原因が「サイコロの出目で良い結果が出なかったから」な訳で。
しかし、”ここ”に納得しないと、ウケる人には成らない、訳だ。
これは正しいのか。
良くも悪くも「カプコン」は、現状での勝者ではある。それは平成を通して良くも悪くも”そう”だ。実際には、モンスターハンターにしろバイオハザードにしろ、問題を微妙に抱えていたしかし。結局は「勝者側に付いた」その、最終的には”紛争解決機構の上で勝ってる方を選ぶ”結果での、成功、ではある。
「売れれば良いんだよ」
結局は、その断言によるのだが。
お客がお金を払ってくれる、それがその時の正義。単に”それ”が、時代の変化により「風向きが変わった」だけで、勝利者にならんとしたら、”それ”に対応せざるを得ない。自分の希望はその時無視される、決めるのは、「自分以外の誰か」である。売れれば正しい、売れなければ間違い。断言できないと、会社は維持出来ない。
その時、何かの私的な理想は、無残に否定される。
その結末に有るのが、「サイコロの出目」だ。
一応”それ”は、「観察者」全方位からの”大衆による決定”ではあるのだけど。
いわゆる「シュレーディンガーの猫」のパラドックスは、「観察者」が一方向からしか居ない、と言う前提でこそ始まる問題で。
間違えたのは誰なのか。
ともかくこの意識は、その”間違い”を信じている。