あげちうのブロマガ

とある夏祭りの悲喜

今の?麻雀の中には「増える」その感覚が無い。

何故か?と言うと、ハコテンの先が有るからだ、リアルとして。
そこにリアルを持ち込んでしまったのは誰か?を、今問う必要は有るか?と言う気はする、が。ただ、感覚としては何が悪いか解らないが皇帝創作になった、”その先”の話だったかも、しれない。

具体例、だ。

とある夏祭りのトリとして、ビンゴゲームを企画する。
踊りに参加した人々には、一回に一枚ずつ進呈、である。
景品多数、しかし只のビンゴゲームでは問題が”想定上は”発生する。
景品が早い者勝ちで有れば?確率としても良い物は直ぐに無くなって、後は雑魚しか残ってない状況に成る。
場が何だか白ける。

そこで、一考する。

景品を、特等、一等、二等の3段階に分ける。それぞれグレードが違う。
縦横斜めの3本全部がビンゴすると、特等。
二本がビンゴすると、一等。
一本のみなら、二等。

この結果、特等は、最後まで残る可能性が出てくる。
すると、抽選会はかなり最後まで解らない、訳だが。


何が悪いだろう?

ただ、「問題ない」と思いつつ現場で”これ”を説明すると、実は来場者の半数以上が「解らない」と言う事態が発生する。
推察するに、「ビンゴゲーム」それは”そう言う物じゃないから”だ。一般化してる固定概念の方が強いし、それ以上の必要性を、多くの人は求めてない訳で。乱数ではあり、どれでも好きなのを、と言われた時、世間の人々は必ずしも金額の高いモノを求めない。大事なのは自分の求める物が当たるか否か?であり、それに格差が出ている、事の方が或いは問題、なのかも。

つまり、意識せずに「皇帝創作」それに成っちゃってる、訳だ、”これ”は。

自分も今も、理解しつつも「悪い」とは思えない状況はある、実際にやってみた事があるから、だが。自分で企画し自分で動く時、ほぼ間違いなく、何だか微妙な空気がそこには始まる、「良いアイディアだ」と思う時ほど”そう”だ。非常に混沌なのは、”これ”を他者がやった場合の実例を知らない事だが。もし興味があるなら、どなたかお試しください。

もし上手く行ったとしたら、それは「独裁的なそれはダメだ」その具体例の一つには成るのだけど。

この時点でも、混沌は数多有って。

ともかく解っている事は、独裁的な決定は多く、想定外の失敗を招きかねない、そう言う事ではある。麻雀のルールは或いは、原始はもっと単純なそれだったのではあるまいか。誰かが、何かの有力者が、ふと「良いアイディアだ」それで、今の形にした、が。その結果、「解らない」人が発生し、或いは”それ”を切り捨てる時、そこには不意に、利益が発生しなくなってしまった。

この例と同じで、「何が悪いのか?」に納得も同意も出来ないまま、それは麻雀と言う博打として、お金をただ消費しつつ取り合うだけのそれとして定着しちゃった、訳だが。シビリアンコントロールの盲点ではある、知識階級のみが解っていればいい事は、「物理として利益に成らない」のだ。

その物理に納得行かないのは、自分も含め、懸念の起点ではある訳だが。


そう言う物だ、と納得する為に必要なのは、何だろう?


ちょっと、非常に狭い需要に対しての

大事な事なのだろうか?
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