和歌山県海南市に
祖父の鍛冶場がありました。
今から37年前までは。
鎚の音が早朝から響き、鍛冶屋をでたら目の前が
3メートルの道路を隔てて田んぼが広がっていました。
祖父は、和歌山県最後の鍛冶職でした。
NHK和歌山にも一度出していただいたり
海南新聞でも取り上げられたり
紙面に載ったことがあります。
私は高校生のころ「向う鎚ち」で祖父の手伝いを
祖母の替わりにしたものでした。
祖父の鍛冶場では、私の物心ついたころには
お弟子さんは一人、近所の農家の後継ぎの方でした。
通い弟子でしたが、
通常は祖父の掛け声で
祖母がハンマーを振るいます。
真っ赤に熱した鉄を祖父の向かい側に立ち、
叩くのです。
それを向う鎚(むこうづち)を務める」といい。
略して『向う鎚』といいます。
今も
鍛冶場も
鍛冶場で鎚を振り下ろす職人祖父も
しっかりと記憶からひきだせる懐かしいものです。
あと何年、何十年、私も合気道が出来るかわかりませんが
祖父のように死ぬ直前まで好きな道を
歩いていたいと思うことが最近時々あります。
55年前にその鍛冶場前の 田んぼではは撮影。
祖父の鍛冶場がありました。
今から37年前までは。
鎚の音が早朝から響き、鍛冶屋をでたら目の前が
3メートルの道路を隔てて田んぼが広がっていました。
祖父は、和歌山県最後の鍛冶職でした。
NHK和歌山にも一度出していただいたり
海南新聞でも取り上げられたり
紙面に載ったことがあります。
私は高校生のころ「向う鎚ち」で祖父の手伝いを
祖母の替わりにしたものでした。
祖父の鍛冶場では、私の物心ついたころには
お弟子さんは一人、近所の農家の後継ぎの方でした。
通い弟子でしたが、
通常は祖父の掛け声で
祖母がハンマーを振るいます。
真っ赤に熱した鉄を祖父の向かい側に立ち、
叩くのです。
それを向う鎚(むこうづち)を務める」といい。
略して『向う鎚』といいます。
今も
鍛冶場も
鍛冶場で鎚を振り下ろす職人祖父も
しっかりと記憶からひきだせる懐かしいものです。
あと何年、何十年、私も合気道が出来るかわかりませんが
祖父のように死ぬ直前まで好きな道を
歩いていたいと思うことが最近時々あります。
55年前にその鍛冶場前の 田んぼではは撮影。