☆生徒・児童と教師は同じ立ち位置ではダメだという事
教師としての体験からを言えば
先生と児童は対等な関係ではない。
もちろん、合気道の生徒とも対等でも平等でもない
学校の先生の机を教室の後ろに置くのはおかしいと感じるし、思うし
しかし
現実に教師の机は教室の後ろに置かれている
また、今の学校には「教壇」がない
私の小学校、中学校時代には教壇は当然ながらあったので今が違和感がありすぎる
何故、上から目線がいけないのだろうか、
教師は生徒の上に立つのは当たり前であり
そんな当たり前の理屈が通らないのをが今の日本の教育実情で
ところで
つい最近、午前中に勤める学校で避難訓練を行いました。
全校生徒、教職員全て校庭に避難するという、休み時間にあわせて(狙って)
行われた訓練です。
やすみじかんといえば、先生の目が届かない児童がたくさんいる
そこが目的。
つまり先生は生徒児童を保護する立場で、生徒児童は保護される立場
しかし空白の時間がある
それが休み時間です。
先生は神様でも、ヒーローでもありません。
目の届かないところに一人でいる生徒を非常時、災害時にリアルに救う事は
困難至難です。
バラバラになっている一人一人を100%救えるというものではありません。
そこで
児童は自分の力で避難をすることが求められます。
そんな意識をつくる訓練。
これはとても大事な訓練だと、感動でした。
子どもは一人一人、人間一般としてみてみれば平等だといえます。
しかし個人個人それぞれ能力差があります。
算数が得意な子、縄跳びが得意、階段を素早くかけおりられる子
足の遅い子(かけっこ苦手)それこそ様々です。
避難はみな一斉に(羊の移動みたいな)というわけにはいかないものです。
周りに助けてくれる人がいない状況では、まず自分の身は自分で守る
なにも考えず、「まず逃げる」です。
津波のときと同じ理屈ですね。
運動会の100メートル競走で、みんな仲良く一緒にゴールする
といったことが、はたして正しいものだかどうか
2週間前の避難訓練で考えてしまいました。
避難訓練で友達より遅れてしか逃げることが出来なかった(足が遅い)
・・・そういう
走るのが遅い僕や私が、その事実から「じゃあ頑張ろう」と
足の遅い劣等感をはねのけたり・運動能力を向上させようと未来にむけて
頑張る機会を
へんな平等意識が、それを奪っているんじゃないかと思ったりしました。
能力の差があること、それに事実レベルで気づかせる
そこで初めて自分は何かを頑張らなきゃ・・と思ったり、気づいたら
それが教育じゃないのかって思います。
また、自分は足は遅いけれど、勉強だけは頑張るぞという
子もでてくるでしょうし
このような機会を与えられるのは学校です。
教師としての体験からを言えば
先生と児童は対等な関係ではない。
もちろん、合気道の生徒とも対等でも平等でもない
学校の先生の机を教室の後ろに置くのはおかしいと感じるし、思うし
しかし
現実に教師の机は教室の後ろに置かれている
また、今の学校には「教壇」がない
私の小学校、中学校時代には教壇は当然ながらあったので今が違和感がありすぎる
何故、上から目線がいけないのだろうか、
教師は生徒の上に立つのは当たり前であり
そんな当たり前の理屈が通らないのをが今の日本の教育実情で
ところで
つい最近、午前中に勤める学校で避難訓練を行いました。
全校生徒、教職員全て校庭に避難するという、休み時間にあわせて(狙って)
行われた訓練です。
やすみじかんといえば、先生の目が届かない児童がたくさんいる
そこが目的。
つまり先生は生徒児童を保護する立場で、生徒児童は保護される立場
しかし空白の時間がある
それが休み時間です。
先生は神様でも、ヒーローでもありません。
目の届かないところに一人でいる生徒を非常時、災害時にリアルに救う事は
困難至難です。
バラバラになっている一人一人を100%救えるというものではありません。
そこで
児童は自分の力で避難をすることが求められます。
そんな意識をつくる訓練。
これはとても大事な訓練だと、感動でした。
子どもは一人一人、人間一般としてみてみれば平等だといえます。
しかし個人個人それぞれ能力差があります。
算数が得意な子、縄跳びが得意、階段を素早くかけおりられる子
足の遅い子(かけっこ苦手)それこそ様々です。
避難はみな一斉に(羊の移動みたいな)というわけにはいかないものです。
周りに助けてくれる人がいない状況では、まず自分の身は自分で守る
なにも考えず、「まず逃げる」です。
津波のときと同じ理屈ですね。
運動会の100メートル競走で、みんな仲良く一緒にゴールする
といったことが、はたして正しいものだかどうか
2週間前の避難訓練で考えてしまいました。
避難訓練で友達より遅れてしか逃げることが出来なかった(足が遅い)
・・・そういう
走るのが遅い僕や私が、その事実から「じゃあ頑張ろう」と
足の遅い劣等感をはねのけたり・運動能力を向上させようと未来にむけて
頑張る機会を
へんな平等意識が、それを奪っているんじゃないかと思ったりしました。
能力の差があること、それに事実レベルで気づかせる
そこで初めて自分は何かを頑張らなきゃ・・と思ったり、気づいたら
それが教育じゃないのかって思います。
また、自分は足は遅いけれど、勉強だけは頑張るぞという
子もでてくるでしょうし
このような機会を与えられるのは学校です。