旅の途中、いろいろな宗教の国を訪れました。
イスラムやヒンドゥー、チベット仏教やキリスト教。
モスクで。ガートで。パゴダで。寺院で。教会で。
思ったのは個人が祈りを捧げるというのは、
とても美しいことでした。
何教でもいいではないか、世界が一つになれば。
時には戦争の火種にもなる所がつらいことです。
うちは、普通に神棚と仏壇がある家庭でしたが
普通にお祈りしますよね。願いというか。
子どもが元気でありますようにとか。
両両親が病気にならないようにとか。
ここだけですがホントに切羽詰まった時は
亡くなったおばあさんにお祈りしてます。
コーヒー豆お供えして。
たぶん自分の中で覚悟を決めているんだと思います。
個人の祈りとはきれいだと思います。
ヤンゴンのパゴダの近くのいつもお茶を飲みに行くお姉さんが
パゴダでお祈りしていたのを見かけた時は「ハッ」としました。
バラナシのセレモニーで見かけたバラモンは、隠れて携帯をいじってましたが。。
アイマキにはうれしいことに、たくさんの妊婦さんや赤ちゃんが来てくれます。
妊婦さんは無事に生まれますように。
小さい赤ちゃんは病気などしませんように。
じいちゃん、ばあちゃんも来てくれます。
病気しないでずっとお店に来れますように。
悲しいですが震災で亡くなった方たちもいます。
つらくて言葉には出来ませんが、忘れたことはありません。
ずっと心の中で生きています。
ずっと閉塞的な世の中ですが
子どもたちは傷つかないで、社会にでていけますように。
お父さん、お母さんはいつも家庭に笑いがありますように。
じいちゃん、ばあちゃんは満たされた暮らしができますように。
そう思っています。
最後にたまに読み返す
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の最後のページに
こういう言葉が載っています。
世界がぜんたいに
幸福に
ならないうちは
個人の幸福は
ありえない
賢治