ひきつづき斎藤茂吉『赤光』からゴオガンの一首。
ゴオガンの自畫像みればみちのくに山蠶殺ししその日おもほゆ
山蠶:やまこ
▼「帽子をかぶった自画像」
▲「死霊が見ている」
自画像の背景右上を占める絵画はゴーガンの自作画「死霊が見ている」。
うつ伏せの裸婦はタヒチでの若い妻。足元に死霊らしき者の黒い影。
夜、ゴーガンが帰宅したとき、妻は死霊の存在に恐怖し怯えていた
というエピソードが知られている。
この「自画像」を見、背景の自作画のエピソードも
茂吉が周知していたことを前提に、
山蚕の幼虫の形状と裸婦の姿態のイメージの類似、
また、見るものと見られるものとの関係線の交差と連鎖から、
三浦氏は次の推論を導き出す。
「自画像」→「殺した日」という連想からは、茂吉が、ゴーガンの
「不安」「怯え」という要素を敏感に察知しているように思われる
(三浦彩子「ゴオガン探索ー茂吉が見たのは、どの自画像か?」)
茂吉の二面性。鬼のように凄まじい怒りと、その反面、おそろしく細く
弱々しい神経。両極端の振れ幅にも思いの及ぶ指摘と思う。
人類の文化的産物について、ある程度の知識を有していることは、
現代の読者としての基本的資格である。読者は作品を理解する
ための知識を獲得しておく義務があるのだ。
実際的に言うと、この歌を読んで、ゴオガンの自画像を見たことが
なかったと心づいた読者は、写真版でなりと、それを一見する労を
とるべきだというのがほんとうである。(玉城徹『茂吉の方法』)
ありがたいことに茂吉の時代よりもさらに精密な画像を簡単に目にできる。
あらためて「自画像」を眺めると、最も鮮烈な「赤」は「死霊が見ている」の
枕かなにかの赤色であることに気づく。赤のみならずシーツの白も鮮明で、
裸婦が羽化しそこねた蚕のようにも見える。
さらに寝台の上を鳥なのか蝶なのか精霊なのか、なにか白い、
羽根のあるものが二、三、飛んでいることにも気づく。
この連中は何なのだろう。
ところで、「山蚕殺しし」の「山蚕」は幼虫だったのだろうか。
成虫だったのだろうか。あるいは蛹だったのだろうか。
「山蚕」はいわゆる「お蚕さん」とは違う野生の蚕で、
あの白いまま生涯を終わる養蚕用の蚕とはかなり違うものらしい。
わたしはどこへ行くのだろうか。