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読書の森

梯久美子 『昭和20年夏、女たちの戦争』

なんだか、世界全体きな臭くなりつつあると感じるのは私だけでしょうか。
不況と戦争が背中合わせの歴史を、私は昭和の時代に学校で習いました。それと今の時代が重なって見えてしまうのです。

もっと以前太平洋戦争真っ只中の時代に青春を生きた女性達の体験談をまとめたのが『女たちの戦争』です。

本日は、以前紹介したblogを添削してup致します。

近藤富枝さん、主婦と作家業を両立させた戦中派の女性です。
戦中にNHKの女子アナとして活躍した方でもあります。職業婦人(古い言葉ですが)の先駆けです。

ただこの時、彼女が関わった戦いの状況を伝えるニュースの殆どが、今で言うガセネタだった!
つまり戦闘意欲を高める為に、たとえ虚偽であろうと日本兵の勇ましい戦いぶりを伝えるニュースだったそうです。
もっとも国内向けの大本営発表は男性しか読まないけれど、東亜向けや北南米向けは彼女も読みました。
大嘘ばかりだった、、とは敗戦後知ったそうです。

一方、同世代の女性(うら若い人たち)の私生活はとっても惨めだったとか。
「山に来て 二十日 経ぬれど あたたかく
我をば 抱く 一樹だになし」
この岡本かの子の歌を、学生時代の近藤富枝は学友と口ずさみました。
恋人同士が公然とデートすると「非国民」と言われる時代。
しかも、彼女達と同年代以上の男子は殆どが戦争に取られています。
子供たちは疎開して、男性と言えば老人と病人だけだったとか。
町も活気を失い灰色にくすんで見えたそうです。


昭和20年3月9日、当時NHK本社は東京内幸町にありました。
社内で8時頃まで彼女と先輩の女性は話し込んでいました。
兵隊に取られた恋人への想いを、普段大人しいその先輩は近藤富枝に一気に打ち明けたそうです。
愛しい人が今南方の戦線でどうしているか全然音信不通だ、生きてるのか死んでるのかさえ分からない!この不安と心の葛藤を先輩は苦しげに吐き出したそうです。
彼女と別れた夜、富枝は千葉県の市川市にある祖父母の家に泊まらせてもらいました。


その夜遅く、深夜ですね、東京は未曾有の大空襲に見舞われます。
電車も架線が電柱にぶら下がり、交通は一切遮断されたのです。
翌朝、近藤富枝は市川から東京の勤務先まで歩いて通いました。

やっと着いた職場には、昨夜話し込んだ先輩は居なかったのです。
先輩は日本橋に住み、昨夜の空襲で明治座に逃げ込んだが煙で窒息死した!
昨日まで熱い血の流れていた友が、今朝は二度と血の流れぬ冷たい屍体となっているのです。
それが戦時の日常でした。

この様な過酷な日々が過ぎて、戦争は漸く終わりを告げます。
同年8月15日、玉音放送をする時に彼女は局内で立ち会っていました。

そして、その日の帰り道、富枝はある人の消息を訪ねて行きます。
ある人とは、東京にいた時の幼馴染で今は兵隊にとられてます。
彼は千葉の稲毛で兵器を統括管理する任務にあたっていたのです。


彼の駐屯地は稲毛の戦車隊。
責任ある地位だから、さぞかし軍隊の後処理が大変だろう、敗戦でさぞかし窶れているだろう。
近藤富枝は、それが気がかりで仕方ない。
そして単身、千葉の彼の下へ向かうのです。
漸くめぐり逢えた彼は、敗戦による失意と飢えと疲労で暗い萎びた顔をしています。
その彼を富枝は、庇って必死に勇気づけたのであります。
それから全ての兵器処理を終えた後、彼は彼女の家に行き結婚を申し込みました。

富枝はNHKを辞めて彼と結婚したそうです。

彼女が作家になったのは、自身の戦争体験の手記が世に出て以降だと言う事です。

苦しい時代を超えて、懸命に生きた当時の若い人たち(殆ど故人です!)の思いをもう一度振り返ってもらいたいです。

注:尚、著者は軍人の娘です。反戦への熱い想いを込めて書かれたものと私は解釈してます。

読んでいただき心から感謝いたします。

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