「山に来て 二十日 経ぬれど あたたかく
我をば 抱く 一樹だになし」
この岡本かの子の歌を、近藤富枝は学友と口ずさんだそうである。
恋人同士が公然とデートすると「非国民」と言われる時代風潮だけでない。
同年代以上の男子は殆どが戦争に取られていたからだ。
子供たちは疎開して、男性は老人と病人だけだった。
町も活気を失い灰色にくすんでいた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/c2/c50578b14fb13208f43dd4ffa41dd67e.jpg)
昭和20年3月9日、当時NHK本社は東京内幸町にあった。
社内で8時頃まで彼女と先輩の女性は話し込んでいた。
軍隊に取られた恋人への想いを先輩は一気に打ち明けたのである。
南方の戦線でどうしているか、不安と葛藤を日頃大人しい先輩が訴えた。
彼女と別れた後、富枝は市川の祖父母家にその夜泊まった。
深夜東京は未曾有の大空襲に見舞われた。
電車も架線が電柱にぶら下がり、交通は遮断されている。
彼女は市川から東京の勤務先まで歩いて通った。
やっと着いた職場に昨夜話し込んだ先輩は居なかった。
先輩は日本橋に住み、昨夜の空襲で明治座に逃げ込んだが煙で窒息死したのだった。
昨日まで熱い血の流れていた友が、今朝は二度と血の流れぬ冷たい屍体となる。
それが戦時の日常だったのだ。
この様な過酷な日々が過ぎて、戦争は漸く終わりを告げた。
同年8月15日、玉音放送をする時に彼女は局内で立ち会っている。
その日の帰り道で、富枝はある人のことを気にかけて居た。
東京にいた時の幼馴染で今は軍人である。
彼は兵器を統括管理する任務にあたっていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/be/2f02a926d75767b7840caa6a8462c985.jpg)
彼の駐屯地は千葉の稲毛の戦車隊である。
責任ある地位だから、さぞかし軍隊の後処理が大変だろう、敗戦でさぞかし窶れているだろう。
彼女は気になって仕方ない。
そして単身千葉の彼の下へ向かい彼を慰問した。
暗い萎びた顔の彼を必死に勇気づけたのも彼女である。
全ての兵器処理を終えた後、彼は彼女の家に行き結婚を申し込んだ。
その後、近藤富枝はNHKを辞めて彼と結婚した。
彼女が作家になったのは戦争体験の手記が世に出て以降だと言う。