オンライン英会話を始めて
1年半が過ぎた。
会話のスムーズさは
中学英語程度の作文じゃ恥ずかしい...とか
ここは長い文で説明すべきだろう…とか
文法的に間違っていたら…とか
変なところで
会話をするのと同じように
書きたいことに集中して
私が文章を書き始めたのは、
きっと当時の私は
大抵の子どものブーム同様
小学生になっても
周りの大人たちも
あれこれとダメ出しをしてくる。
「上手く書かなくては」
という思いが書きたい気持ちを押しのけて
結局、書くこと自体を躊躇してしまうようになった。
そう、きっと子ども達はそうやって
好きだったことを追求する意欲を亡くし、
自分の可能性を失っていくのだ。
こうして私の創作に対する思いは
それはそれなりに役に立つけれど
会話のスムーズさは
確実に感じられるようになった。
レッスン中に自分の意見や考えを
躊躇ぜずに言葉にするようになった。
文法的な間違いをさほど気にせずに
それでも自分の使える表現を
どんどん言葉にして言えるようになった。
なのに。。。
英語で書くことには、
まだまだかなりの困難を感じる。
そりゃ、オンライン英会話で
書く練習はしていないから
当然のことではあるのだけど。
話す時には気にならないのに
書こうとした時には、
「正しい表現を使おう」とする。
「難しい単語を使おう」とする。
それで、書き進められなくなる。
中学英語程度の作文じゃ恥ずかしい...とか
ここは長い文で説明すべきだろう…とか
文法的に間違っていたら…とか
変なところで
格好をつけようとしてしまう。
「英語を教えている」という立場が
そんな私にしてしまうのか。
「英語を教えている」という立場が
そんな私にしてしまうのか。
会話をするのと同じように
そんな変なプライドとかは捨て
書きたいことに集中して
心に浮かんだ言葉で
自由に書いてみたらいいのに。。。
文字や活字は
文字や活字は
長い間保存された形で残される。
それを思うと、
なんだかコワイのだ。
会話はちょっと下手でも
会話はちょっと下手でも
意味が通ればOKだ。
書き言葉は話し言葉より
書き言葉は話し言葉より
時間を掛けてまとめられている分、
多少の丁寧さや正解さ
品格が表されるものだ。
となると、
話し言葉のように自由に書く
ということには中々いかない。
日本語でなら、
話すことより書くことの方が
考えを自由に表せると感じているのに。
なぜだ?
自分の中に疑問が渦巻く。
なぜ、日本語で書くのは良くて、
英語で書くのは苦手なんだろう?
それは私が日本語と一緒に
過ごしてきた歴史に
関係するのかもしれない。
きっとそうなのだ。
私が文章を書き始めたのは、
確か小学校入学前のことだ。
ある時、
ある時、
私は風邪をひどくこじらせて、
1週間ほど入院することになった。
2,3日である程度元気になり
1週間ほど入院することになった。
2,3日である程度元気になり
そうなると病院生活はかなり退屈で
自由に遊べないことを
かなり苦痛に感じていたように思う。
そんな中、
自由に遊べないことを
かなり苦痛に感じていたように思う。
そんな中、
付き添いの母に読んでもらったお話をきっかけに
私は物語を作ることを楽しみ始めた。
多分初めのうちは、
頭に浮かんでくるお話を
口頭で話していたのだと思う。
その辺は定かではないが、
私は物語を作ることを楽しみ始めた。
多分初めのうちは、
頭に浮かんでくるお話を
口頭で話していたのだと思う。
その辺は定かではないが、
それを聞いた母が
何かしらアドバイスでもしたのだろう。
私はお見舞いにもらった折り紙を
私はお見舞いにもらった折り紙を
白い面が表になるよう半分に折り
バラバラの端を本のように綴じ、
数ページの冊子をつくった。
そこに自分が考えたお話を
自分の言葉と絵で表わし
オリジナル「絵本」をつくった。
大人というのは子どものそういう行為を
取り分けて大袈裟に褒めるものだ。
そこに自分が考えたお話を
自分の言葉と絵で表わし
オリジナル「絵本」をつくった。
大人というのは子どものそういう行為を
取り分けて大袈裟に褒めるものだ。
きっと当時の私は
そんな大人の言葉に乗せられ、
他にも絵本をつくっていったのだろう。
その頃の場面は
不思議なほど鮮明に思い出せる。
その頃の私の将来の夢は、
その頃の私の将来の夢は、
本屋さんになることだった。
大抵の子どものブーム同様
絵本作りは長続きしなかったが、
小学生になっても
作文を書くのはさほど苦に感じず
(かと言って上手でもなかったが)
何か書きたくなった時には
(かと言って上手でもなかったが)
何か書きたくなった時には
書きたいことを迷うことなく
紙に書き残すようになっていった。
あの頃の私は、
書きたいことに夢中だった。
あの頃の私は、
書きたいことに夢中だった。
そして誰もそれを否定しなかった。
むしろ褒めてくれていたから
幾らでも書けたのだろう。
学年が上がっていくに連れ
段々文章の巧拙が気になりだした。
むしろ褒めてくれていたから
幾らでも書けたのだろう。
学年が上がっていくに連れ
段々文章の巧拙が気になりだした。
周りの大人たちも
あれこれとダメ出しをしてくる。
「上手く書かなくては」
という思いが書きたい気持ちを押しのけて
結局、書くこと自体を躊躇してしまうようになった。
そう、きっと子ども達はそうやって
好きだったことを追求する意欲を亡くし、
自分の可能性を失っていくのだ。
書くのは好きだけど、
人には見せられない。
そんな私だったけれども、
私的に書くことは止めなかった。
心の中からわき上がった私の言葉は
詩や小説やエッセイとして
ノートやパソコンに文字として残された。
こうして私の創作に対する思いは
「好きなことだけど
得意じゃないこと」として
ライフスタイルの中に残された。
ライフスタイルの中に残された。
それはそれなりに役に立つけれど
誰かに伝えたり
誰かを楽しませたりするものではなく
私自信の自己満足でしかなかった。
このブログを書くのも、
読者がいるからという理由もあるけど
書くことは、
癒しであり
励ましであり
慰めであり
自分とは何かを知ること
だからできるのだ。
話を元に戻そう。
今までの英語と私の関係を思うと、
確かに英語で書くことが
癒しや励ましや慰めや
自己発見につながることは、
ほぼなかったのだろう。
なんだか、
もったいない。
と、今は思う。
こんなに英語が身近であるのに。
文字にすることや書くことが
こんなに好きなクセに。
と、思う。
ならば、少しずつでも
初めて見ようか。
絵手紙じゃないど、
「ヘタでいい。
ヘタがいい。」の精神で。
それは、
私がいつも子ども達に伝えている
あの言葉と同じ意味を持っている。
「間違えたっていい
間違えなくちゃ
できるようにならない」
英語で自由に書けたらきっと、
私自身をもっともっと
もっと、
解き放つことができる。
今、そんな気がしている。