第2図「見跡(けんせき)」では、牛の足あとを見つけたところが描かれています。
「足あと」ですから、まだ牛そのものではありません。
ようやく自分を知る手がかりをつかんだ、というところのようです。
自分が夜道に迷い込んでどっちに行けばわからない時、襲われてしまったらどうしようとか不安が広がり、方向さえわかればなんとかなると空を見上げたら、北極星を見つけて方向がわかるみたいな感じかなぁと想像してみたり。
生き方が悉く暗闇に迷い込む選択をしていた人が、正しい教えを見つけ、それを説く方に師事したり。
ただ、盲信は良くないですけどね。盲信は目を亡くし信じるわけだから。自分の目を無くさないで、自分の心の眼が澄みきったら、そこに善く映るものを信じるのは良いですね。
仏陀の教えは時代を超えて凄いなぁと思います。ブッダのお話を読んでそうかぁ!と理解したと喜ぶのも束の間、自分は目の前の事柄にオロオロするのです。眼が澄んでいなくて頭で考えるうちは、まだまだこの第2図の段階かな。
牛の足あとは、雨が降れば消えるかもとか、色んな事を気にして早く牛を探そうって焦ります。そうすると辛くなってきます。人生の苦労には無駄はないですから、辛い時は泣いて、涙の跡でもつけておいても良いですね。涙が乾くときには少し心が晴れて、足跡探しをまた焦らずに始められるかもです。
牛の足跡は見つけても牛そのものをまだ見つけていない段階が第2図。まだまだ先は遠いなぁ、と思います。
大切なひとが辛い時には、自分も辛くなります。自分の牛の足跡を辿り、自分をまずは見失わないようにしないとです。
「足あとをさがし、歩きまわって疲れが限界にきていた旅人は、自力で牛を探すことをやめました。そこで、お経を読み、いろいろな人から教えをうけて牛のゆくえを追いました。そのたびに、いったい、誰の言うことが正しいのか、何を信じればいいのか分からなくなってきました。なぜなら、お経に書かれたり教えられたりした牛は、自分の牛ではないからです。」
牛は誰の心にもいるので、アドバイスとか良い教えなんかのきっかけを大切にしながらも、「自分の牛」の足あとを見極めながら、横道に逸れないようにしないとです。
私は道草好きですから。
つづく