あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いします。
昨年の年明けも富士山をみに行きましたが、今年の年明けも富士山をみに家族でいきました。
朝霧高原サービスエリアに行き、それで帰るつもりでした。また白鷺も飛翔してくれました。綺麗だったねと満足して帰ろうとすると、白糸の滝の標示があったので、急遽行くことにしました。
滝はマイナスイオンでいいですね。
白糸の滝
その地で赤い富士山を初めてみました。
夕方赤く照らされる富士山は、赤富士ではなく紅冨士というみたいですね。
音止の滝
どちらでもあかいことにはかわりないですね。
神々しかったです。
磐長姫を祀る神社がありました。音止の滝あたりです。
皆様今年もどうぞよろしくお願いします。
動画に対するコメントを先日いただきました。
なるほどなぁと思いましたから、一部紹介します。
ハンセン病に対して、因果律を審神しても、それほどの刧劫は見えない。
(あき注※ 因果関係がない、もしくは少ないということでしょう、、過去に悪い事をしたからこの病になったわけではない)
神は人を幸せにするために、多くの技能を人に与えた。しかし、反面、多くの人を不幸せにするために(逆行からの神化)多くの因果律に歪みをもたらせた。
ハンセン病に対して、神唯一の愛は、天使が自らを犠牲にして、世の刧劫に堕ちる覚悟があり、神はその上での始末に、上乗を約束されている。
(あき注※地上で最大限の試練に立ち向かった天使達は因果律に支配されたこの世を卒業することは約束されており、それは人間の最大目標でもあり、ブッダやキリストと同じようになるということ、、かなと思っています)
勝手な注釈はあき、自らしました。
コメントは一部のみですが、そうかもな、、と思いながら、ふと飯田史彦先生の著書の言葉を思い出していました。
飯田先生が瀕死の状態になった時に光の存在と対話した内容です。善因善果、悪因悪果に支配された世界は順調な学びの場であることを述べたあとの所です。紹介します。↓
精神宇宙の真理......その上に、それを超える、さらなる真理があったのですね・・・・・
それは、精神宇宙が、真に自らを成長させるために、自らに対して仕込んだ、総仕上げのような巧妙な真理・・・・・・いわば、「最終的な真理』つまり、
「自ら予定した順調な学びを、強制的かつ自動的にかき乱すようなしくみを、わざと自らの内部に埋め込んでおくことによって、その予定外の混乱状態を通じた極限の学びを、自らに強いておいた」ということなのです。
「生まれる前に計画しておいた人生が、予定通りに順調に展開していき、予定通りの喜怒哀楽を通じて学ぶ」というだけでは、その範囲の学びだけに、留まってしまう。
それに対して、「生まれる前に計画しておいた人生ではあるが、実際には、自動かく乱システムが強制的に作動し、予定外の出来事が生じたりすることにより、大いに混乱してしまう」という体験をする方が、学びの内容や成長度は、はるかに大きくなることでしょう。
だからこそ、精神宇宙は、物質宇宙という学びの場の中に、「時間」と「空間」の観念を創造するにあたり、わざと、「時間のひずみ」と「空間のゆがみ」というしくみを、用意しておいたのです。
そのため、その物質世界で生きる人間の人生にも、「思わぬ時に、まったく理不尽なことが起きてしまう」という現象が少なからず生じてくる、というわけなのです」
飯田先生は、下記の文章で死という言葉を使っていましたが、そこを病(ハンセン病)におきかえてみます。
したがって、人生では、「予定外の病」もあり得るのです。その病から、何の意味も感じられないような、あまりにも悲しく空しい病が•・・・・その病が、それほどまでに悲しく空しいからこそ、その病にかかわる人々や、その病について知った人々が、より深く心揺さぶられ、より大きな学びを得ることのできるような病が…・・・・・。
そう、その病は、まさに、「一見すると意味の見出せない病だからこそ、その病がもたらす深い絶望感、虚無感、喪失感を通じて、人々に、より大きな学びの機会を与えることができる」という、これ以上ないほどの逆説的な価値を持っているわけです。
その瞬間、先ほどまで対話してくださっていた、ほのかな紅色の光が、ふたたび、私に語りかけてくださいました。
光「物質世界における学びの初期段階にある魂は、生まれる前に計画した予定通りに、順調に人生が展開していきます。時間や空前のいたずらによって生じる、あまりにも悲しく空しい試練には、まだ、とても立ち向かえないからです。したがって、すでに充分な学びを積んだ魂にだけ、予定外の試練が生じるようになっているのだということを、忘れないようにしてください。そして、「だからこそ、それほどの試練に直面した魂は、誇りを持って、その試練に立ち向かうべきなのだ」ということを、人間として生きている魂たちに、どうか伝えてください」
高知県高岡郡津野町(旧東津野村)の津野山の神様に謝罪に行ったのが5年前の11月23日でした。母と妹と私と山﨑さん。母が若い頃、お山の頂上にあったお宮を、村の人が高齢化を理由に取り壊し、下に移した事がことの発端でした。誠の心で神様に謝るようにと、山﨑さんに言われました。
神様がみえるわけでもない私たちにとって、どこで謝ればいいのか、山﨑さんに言われるがままの場所で謝罪しました。山﨑さんは、私たちが謝ると神様が笑ってくれましたといいました。
妹がその後、少し温かい季節にその山の頂上に登りました。この地に祠をたてたいといいました。鳥居も立てたいと。私もその後、夏に帰省したときに、のぼってみました。凄い雑草を掻き分けて山にのぼりました。妹に、道がないやん、道がなければ、なかなか難しいよ、、といいました。
秋の彼岸花が咲くころ、母と妹が山の頂上まで手作りで道をつくりはじめました。
そして、手作りの階段が出来上がったあと、ちょうど謝罪から1年後の11月23日に、お山の頂上に祠が立ちました。、100キロもの祠を担いで上げました。その階段は本当に急で、私は15キロくらいの砂利をかついで何回も往復しました。
その話が同郷の琴さんにつたわり、あれよあるよという間に車が通れる道ができ、お宮が善意でたちました。そして、妹のお宮友達が草木やら狛犬やら灯籠やらを奉納をして、5年目に鳥居がたち、落成式を2024年11月23日にすることにしました。
恵比寿様、金毘羅様、耳の神様(龍神様)の三柱の神様の地です。
11月23日は、今は亡き父と、大好きな母の結婚記念日でもありました。落成の日は神風が吹いたり、鳥の大群やら、煌めく蝶がお出ましになったりと、この地が神の地で神々がお慶びになっておられることを感じました。
落成日が決まって準備がすすむ中、10月頃、門屋さんという主婦の方から妹に連絡がありました。門屋さんは6月に、竪山さん繋がりで知ることになりました。
門屋さんは、高知県中村市(四万十市)出身のハンセン病元患者の曽我野一美さんの手紙を妹に持ってきました。
門屋さんご自身も高齢になる中、どうしても大切な手紙を高知にいる妹に託したいとのことでした。そして、曽我野さんを高知に帰してあげたいとのことでした。
曽我野さんは、らい予防法違憲国賠訴訟を統一原告団代表として闘った御方です。(竪山さんは副会長)。曽我野さんは生涯隔離先からふるさとに帰らず、ご遺骨になっても帰ってこられてない御方です。
私は、その時はすでにらい予防法違憲国賠訴訟動画を作りはじめていたのですが、曽我野さんについて高知の方というくらいで、当初は動画の中にいれる予定はありませんでした。しかし、妹が手紙を託されたことより、調べると、この方は動画に必ず残さなければならない貴人であり、歴史に残る偉人であり、この方を高知、ふるさとに帰したいと強く思いました。
妹も同じ思いで、曽我野さんについて調べてみると、一男四女の長男としてお生まれになり、享年は11月23日。落成式を行うまさにその日が、13回忌だというのです。
私の母も、一男四女の末娘。母の兄、長男であるおじさんは、戦争に行きました。
何かと共通点があり、これは津野山の神様、四万十川源流の神様が、四万十川下流が故郷の曽我野一美さんを繋いでいるのだと覚信しました。
どうか、この動画をみてください。
人と人が殺し合う愚かさ、人が人を差別する悲しみ、それを自分におき変えてみてください。
この動画は、お山の神様が何度も示唆してくれた気もします。