第3図は「見牛(けんぎゅう)」です。足あとを探していくと、ようやく牛を見つけました。しかし、牛はその姿の一部しかあらわしていません。
尻尾だけでじらされてる感じかな。笑
牛の鳴き声が聞こえたので、その声を頼りにたどってみれば、ようやくその姿を見つけることができた。それは、旅人が一方的に探し求めていただけでなく、牛のほうからも近寄ってきたからである。牛も自分を探していた。
とあります。
求むよ、さらば与えられん。求めると牛(自分)も近寄ってくれるのですね。
また、こんな風にも書かれています。
自分の目も耳も、鼻も舌も、体も心も、その感覚のひとつひとつが、牛を見つける手がかりとなった。日常の行動もまた、その一挙手・一投足が、やはり牛を見つけるために必要だった。
だから、まるで海水に溶けこんでいる塩の味や、絵の具の中に含まれている「にかわ」のように、自分と牛も、同じように分けて考えることはできない。
まゆ毛をさっと上げて、目をはっきり開いて見つめれば、まさに牛と自分は別のものではないことに気づくだろう。
もともと、牛の例えは自分だから、無くなるはずもなく、また、分けることも出来ないんですね。
自分の内なる声が、牛の鳴き声であり、小さな鳴き声でも自分が求めていたら、耳で聴こえるわけではなく、全身でわかる感じ、それを信じて歩んでって言っているのかなぁと思います。内鳴る声を微かでも感じる心を養いなさいと言われてるみたい。
何が起こっても、誰に何と言われようとも、あなたはあなたで大丈夫。だから歩み続けなさいと。自分の中にも、皆んなの中にも、「その人だけの牛」がいて、足あとを残したり、微かに鳴いていたりしている感じがします。違う道の時は、暴れるのかも。
足は遅いけど、牛のしっぽを追っかけ、牛の微かな鳴き声を聞き逃すことなく、感じられる心で歩んで生きます。
つづく
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