大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

十牛図 第3図「見牛」

2021-10-28 06:12:00 | 神話・物語・本から

第3図は「見牛(けんぎゅう)」です。足あとを探していくと、ようやく牛を見つけました。しかし、牛はその姿の一部しかあらわしていません。



尻尾だけでじらされてる感じかな。笑

  

 牛の鳴き声が聞こえたので、その声を頼りにたどってみれば、ようやくその姿を見つけることができた。それは、旅人が一方的に探し求めていただけでなく、牛のほうからも近寄ってきたからである。牛も自分を探していた。



とあります。

求むよ、さらば与えられん。求めると牛(自分)も近寄ってくれるのですね。


また、こんな風にも書かれています。


 自分の目も耳も、鼻も舌も、体も心も、その感覚のひとつひとつが、牛を見つける手がかりとなった。日常の行動もまた、その一挙手・一投足が、やはり牛を見つけるために必要だった。

 だから、まるで海水に溶けこんでいる塩の味や、絵の具の中に含まれている「にかわ」のように、自分と牛も、同じように分けて考えることはできない。

 まゆ毛をさっと上げて、目をはっきり開いて見つめれば、まさに牛と自分は別のものではないことに気づくだろう。



もともと、牛の例えは自分だから、無くなるはずもなく、また、分けることも出来ないんですね。


自分の内なる声が、牛の鳴き声であり、小さな鳴き声でも自分が求めていたら、耳で聴こえるわけではなく、全身でわかる感じ、それを信じて歩んでって言っているのかなぁと思います。内鳴る声を微かでも感じる心を養いなさいと言われてるみたい


何が起こっても、誰に何と言われようとも、あなたはあなたで大丈夫。だから歩み続けなさいと。自分の中にも、皆んなの中にも、「その人だけの牛」がいて、足あとを残したり、微かに鳴いていたりしている感じがします。違う道の時は、暴れるのかも。


足は遅いけど、牛のしっぽを追っかけ、牛の微かな鳴き声を聞き逃すことなく、感じられる心で歩んで生きます。




つづく




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