孔子の論語のお言葉に
「とも遠方より来たる」というのがあります。
どんな文脈ででてくるか?というと、こんな感じです。↓
子曰く:学んで時にこれを復習する、学んだことが身につく。喜ばしいことではないか。
心からの友人が遠方より訪ねてくる。楽しいことではないか。
人に認められなくても憂えない。君子と言えるだろう。
その部分の、日本語訳は、
反復して学び続け、友と会得し合う行為はなんと楽しいことか。かつてその学びとこころざしを共有した友はせっかく知り合えたと思ったとき、いろいろな事情で遠隔の地に移り住むようになってしまったが、あるときふとやってきてくれた。近況を報告したり、意見を交わしたりしてときを共有できるのは大きな楽しみだなぁ。でも話の矛先は、やっぱり学びとこころざしに向かっていく。友との時間が 、生きていることをいっそう豊かなものにしてくれる。
とか、ありました。
解釈は自由なので、私も感じたままに書いてみます。
孔子のお言葉で、生涯を語るものがあります。15にして学を志しり、
30にして立ち、
40にして惑わず、
50にして、天命をしり、
60にして耳に順い、
70にして七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず、
です。
私はこれらも踏まえて、とも遠方より来たるの朋(友)は、他人ではなく、自分自神だと思いました。
人生はあっという間。10代に、わけもわからず学んでいたことが、やっと腑に落ちるようになるまで、何度も何度も人生において、経験させられるなぁ。学びは尽きないなぁ。学んだことは、友達のように自分を助けてくれる。
あー、あの時、一生懸命やってたことは、このためだったんだなあ、学びは裏切らないなぁ、ずっとこの身体(月🟰にくづき)と共にいてくれたんだなあ(🟰朋)。朋友だったんだなぁ。
この自分の内にいる、見えない朋こそ、私の血や肉と繋がりながら、心の君主(髄)にいたんだなあ。なかなか気づかなかったなぁ。ずっと、共にいてくれたんだなぁ。
君が心にずっといる限り、他者からの評価なんて関係ない事がわかったよ。😉
君は、私の内なる心君だし、ずっと君と共にいたことをわかったから(真髄に気づいたから)、今はっきりと私は心君の子(🟰君子)だと、いえるよ。ありがとう😊。
他人と仲良くする、友達が多い、素晴らしいことですが、それ以上に、自分の内にある、ほんとうに尊い、貴い存在。どんな、弱くて、情けなくて、仕方ない、そういう自分をずっと支え、励まして続け、共にいる存在。それが朋であり、内なる神さま。心君。それ以上に素晴らしい存在は、いないのかも。皆の中にも、必ず朋友はいて、皆も、その心君の子。
なんて、私はこの孔子のお言葉から感じました。