大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

釣鐘伝説

2022-09-30 07:15:00 | 神社仏閣


福岡で大変気に入りました織幡神社に釣鐘伝説があったことから、釣鐘伝説について面白い伝承がありましたのでご紹介します。



鳥取にある浄土宗の本願寺にまつわるとされる不思議な鐘の話です。

天正年間(1573-1592年)の頃、和田五郎右衛門範元という浪人が、塩俵を馬に乗せて伏野の浜を歩いていた時のこと。

突然海中から女が姿を現した。女は小さな鐘を小脇に抱えており、これを本願寺に届けて欲しいと頼んだ。

範元が断ると、女は重ねて「私はこの下の龍宮に住む者だが、本願寺の阿弥陀仏が海の中におられた時に魚や貝にまで慈悲を施していただいた。そのお礼として鐘を差し上げたいのだ」と言う。

それを聞いた範元は深く感ずるところがあって、本願寺へ鐘を届けると約束した。そして寺へ持参したところ、小さな鐘は見る間に大きくなって巨大な梵鐘に変わったのである。

このような不思議から、この鐘は“龍宮の釣鐘”と呼ばれ寺宝となった。そして海からやって来た証拠として、鐘には鮑がくっついているという。

釣鐘は平安時代前期に造られた希少なものであるとされ、国の重要文化財に指定されている。



また昔から鐘にはひびが入っていて鳴らせないが、それを撞くと大水が起こると伝えられ、別名“鳴らずの鐘”とも言われている。

本願寺の山門は龍宮門であり、上部が鐘楼となっているが、現在は鐘はそこにはなく、鳥取市歴史博物館やまびこ館に展示されている。




遠江(静岡県)の地にも「役行者」と釣鐘にまつわるお話しも紹介します。

さても今は昔 原田の郷の長福寺。それまで務めておられたお師さんが遷化されてかわりの新しいお師さんが来られてどれほど経った頃、ある日 ひとりの老爺が寺を訪ねてこられてなそれはもう みすぼらしい出で立ちで満足に食うものも食うておらんのか腕も足も棒っキレのようにやせ衰えて見えたが、不思議と顔色はよろしく その声も澄んで力もこもっておったというな。


「誠にあいすまぬが・・」 

老爺は申し出た。


「大和国は大峯まで参ろうと行脚の途中 路銀が尽きてしもうた」
「いくらか恵んで下さらぬか・・」


お師さん、その時 客人を迎えて大好きな囲碁を差しておったのだが・・。


「カネか・・ ここは見ての通り貧乏寺、カネと名の付くものはホレ、そこな鐘楼の鐘くらいなものじゃ、それで良ければ持ってゆけ」


このお師さん、人は悪うないのだが少々粗忽なところがあって時折物言いが宜しくないそれとも大好きな囲碁の邪魔をされたとでも思うたのかの。


ところが 思いも寄らぬ返事が返ってきた
「そうか、それではもらってゆくぞ」
何を言うとるのか? と訝しがって振り向いたお師さんと客人、
そこに とんでもないものを見たわ
五十人かかってもビクともしなさそうな鐘を老爺、たったひとりで軽々と楼から外し その細い肩にからげているではないか・・
「・・・」


あまりの事に声も出せんと それでも口はポッカリ開いたまま・・

そのうち 一陣の風が舞ったかと思うと見るまに渦を巻き ブォンブォンと鐘を響かせながら鐘と老爺は浮き上がり やがて空高く飛び去ってしもうた・・


ハッと気が付いた時は既に鐘楼はただの雨宿り場と化しておった
あわてて後を追うたが鐘と老爺は空の彼方、はるか西の山の方へ消えていった・・・

その日の晩のこと、遠江から五十里はあろうかという大和国大峯の郷に強い風が吹いた。


まるで嵐の如く この季節に如何なることかと郷の者たちも恐れ 家から出んかった
翌朝、風も治まりお天道様も顔を出され、皆、昨夜の風はあれは何じゃったのかと口々に話しておったが、その時、ひとりの村人が血相変えて叫んだそうな。

「おい! ありゃぁ何じゃ!?」
指差す方を見ると 山の頂、絶壁の岩の上に何か大きなものが引っ掛かっておる
何じゃ何じゃと皆で見に行ってみると 何とお寺の大きな鐘ではないか・・


こんなもん何処から飛んできたんじゃ? どうやって飛んできたんじゃ?
皆であれこれ話しておったが埒が開かん
そのうち ただひとり字を読めるもんが鐘に刻まれた銘を見つけたんだと





【遠江国佐野郡原田郷 長福寺鐘天慶七年六月二日】

そう書かれておったそうな・・・

龍宮、沈んだ鐘。逆さまの鐘。役小角の釣鐘、飛ぶ釣鐘、


釣鐘の頭は龍頭というだけに、






何か龍にかかわる暗示があるかもなんて考えるとロマンは広がりますね。


釣鐘の内部の空間は、胸の奥にいます無形の神さまが坐っている姿に感じています。☺️



寺で鐘を撞いたり、見たりすることがあれば、こんな話を思い出すと面白いかもです。



【画像は全てお借りしました】




コツコツカツコツ

2022-09-29 06:41:00 | ひとりごと

姉が以前私に、コツコツカツコツ


と教えてくれたことがあります。

なかなか良いこと言うなぁと、

私は出会う子達に

コツコツカツコツだよー、

コツコツカツミチだよーと

言ったりします。


最初の私の脳内変換は、


コツコツ勝つコツでした。


しかし、段々と変換漢字に変化が出てきました。勝敗は関係ない。


コツコツ克、コツ

コツコツ克、未知



とかね。


そしてさらには、


己っ、己っ、克、己っ。


一つの道へ


とも思ってます。


克己心。


誠実な正しい大いなる道を、

コツコツ、山登りするように

自分の邪に打ち勝ち歩いていくのかな。


生きていると、

思いがけないこともおこり、


えっ、こんなところに崖?

こんなところに、渓谷?

こんなところに洞窟?

こんな絡まった根っこ?

こんなところに落とし穴?

とかありますが、

それさえも


大いなる一つの道の内包する

一景色に過ぎないのだと、

ふんふんふんふんと、

時に回り道をしながら、


落ち込んだら、這い上がるだけ、

ハイなときほど、謙虚に冷静に、

熱い時ほどクールな視点、

クールな中にも熱い思いを。


克己心を持って良い時も悪い時も、

その景色にどっぷり入らず

景色を眺めるようなイメージで


難しいですけど、

コツコツ登山です。



三姉妹で今週末は奥宮登山🥾してきます。




ハシビロコウ

2022-09-28 05:26:00 | ひとりごと

ハシビロコウという名前の鳥が、高知の野市にある動物園にいます。



ハシビロコウ | アフリカ・オーストラリアゾーン | 高知県立のいち動物公園 公式サイト - 人も動物もいきいきと

高知県香南市野市町にある「のいち動物公園」は、周囲を緑に囲まれた動物公園です。ひろびろとした公園の中で、のびのび暮らす動物たちとのふれあいと、季節ごとの草花や野...

のいち動物公園

 



「動かない鳥」として有名なようですが、主食である魚を捕まえるために水辺でじーっと動かずに待ち続け、魚が水面に上がって来たときに捕まえるようです。




先日、フォロワーさんも紹介して、あっハシビロコウだ!と思いました。


2020年に、全国でハシビロコウがいる動物園は6つだけだったようです。今は増えているかもしれませんが。


ハシビロコウは、他の鳥に比べるとじっと動かないでいる時間は確かに長いようです。


人の場合、行動の静動があり、また気持ちは絶えず動きやすいです。


マスコミの情報は、意図をもち扇動し、大多数の意見がまるで正義のように色付けし、違う意見を叩きます。


テレビは殆ど観なくなりました。


欲に関していうと、

物欲に限らず、こうあって欲しいなぁとか、自分がこうなりたいなぁとか、現実にないものを望んだり、心はかけずりまわります。

大欲(全体にとってプラスになる欲)や自分だけの欲など、欲も分ければ限りない。


色んな事がいっぱいになって苦しくなってしまうなら、気持ちを手放す。

誰かに会うとシンドイ時はひとり時間を楽しむ。そうはいっても社会の関わりの中にいる限り、合う合わない関係なくやはり、交わりは切ってもきれないから、そんな時は淡々と。ハシビロコウは単独を好む鳥。


色んな景色の流れの中で生きることも、大きくみると輪廻の流れの一部のようです。


流れの中でじっと何時間も立つハシビロコウって、輪廻の苦海を解脱した鳥みたいですね。😌


輪廻転生、出会いも縁なければ出会わないとよく言われます。


家族は水知らずの2人から始まり、水入らずになります。毎日顔合わせていると有り難みが当たり前になってしまいがちだけど、家族になる縁は凄い縁。水になり浸透するくらいの縁です。

また、一度の出会いに魂の強い縁を感じることもあったりします。それも、魂に浸透する縁です。


出会いは素敵。出会いは不思議。


思い通りにならない事は人生にはあり、人との関わりの中で生きる以上、流れが逆流や濁流になることも、自分の努力如何に関わらずあります。


思い通りにならない濁流の中、その流れの中で踏ん張って流されないように立たないといけない時もあります。輪廻が苦海といわれるのは、そんな時のことを含んでいうのかもしれません。


そして、そんな時こそ自分を試される感覚があると同時に、本当に大切なものに気付けたり、誰が本当に温かい人なのかがわかります。そこにまた縁の有り難さを感じます。


ハシビロコウは、流れに流されていない時点で凄いです。流れの中で止まる。そして、じっと見る。







普段なら聞き流せる言葉さえ、自分の心が穏やかでないと濁流の音と混ざり不快な音に簡単にかわったりします。

流れに流されやすいのが人なのかなぁと思います。しかし、流れに逆らって生きる事ができるのも、人だけだという言葉もあるようです。流れに止まるのがハシビロコウ。逆らうより私も静かに止まりたい😌


だから、感覚を信じて、堅く心に信じるものに止まることができればなぁとも思います。


流れが良ければその流れにまかせるのも良いかもですが、流れのような未来予知不可能で自分ではどうする事も出来ないものに流されるまま生きるのではなく、


流されずに立つ、または、流されそうな時にこそ感覚を研ぎ澄ませ、俯瞰出来るようになりたいなぁとも思います。






神代文字

2022-09-27 05:53:00 | 神仏について

亀卜(きぼく)の伝承に関連してイカツオミという審神者のお話があります。


日本神話から

仲哀天皇の死に際し、神功皇后は自ら祭主となり、武内宿禰に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を、神意を解釈する審神者としました。この中臣烏賊津使主の子が壱岐島の壱岐直真根子氏です。


対馬の伝承・異伝から


神功皇后の外征を支えたのは、個性的で有能な家臣たちでした。特にイカツオミ雷大臣)は、皇后の凱旋後に対馬に留まり、古代の占いの技術である亀卜を伝えたとされます。


日本と大陸の間にあった、対馬や壱岐島は、大陸からきた亀卜をやり始めた場所ですね。


イカツオミ(雷大臣)は 対馬の太祝詞神社横に墳墓があるようです。


名称に「雷(霹靂)」「能理刀(のりと)」がつく神社では亀卜が行われていたケースが多く、全島に分布しているとのことです。


⚡️。霹靂(へきれき)。能理をノリトと読む。日本語は面白いですね。


田んぼに刀を突き刺さして雷を落として、豊作を祈り土地を中和させる話や、刀を逆さにして座った武甕雷(タケミカヅチ)神を私は思い浮かべてしまいました。


ミカヅチは、イカヅチ、元はイカツオミ(雷大臣)からかなぁ、とも思えてきます。


タケミナカタ神と戦って勝ったのが、鹿島神宮の御祭神タケミカヅチ神です。雷神かつ剣の神様です。


地震や天変地異に縁ある鯰を祀る神社は九州に多いので、この雷大臣は⚡️少し気になります。


亀卜は亀の甲を一定の作法で焼き、生じたひび割れによって吉凶を占う方法ですから、ひび割れから、イカツオミ(雷大臣)の名前がついたのでしょうか。


卜部と呼ばれる人々は、伊豆・壱岐・対馬から、卜占の技術に長じた者が選ばれて、宮中で祭祀をしていました。


日本列島においては、弥生時代から動物の骨を用いた骨卜が行われていたようですが、神祇官において採用されたのは渡来系の知識に基づくと思われる亀卜だったようです。


記紀には、5世紀に対馬と壱岐の神社の祭神が亀卜の人々と一緒に、奈良に移ったという有名な記事があるようです。


この時期には、国造りが盛んに進められており、対馬や壱岐の進んだ祭祀、亀卜などが卜部氏によって中央に持ち込まれ、記紀の編纂作業にも反映されたようですね。


鹿の神事をする志賀大神は安曇族。タケミナカタ神を信濃でサポートする流れがありました。タケミナカタ神は国譲りの際、最後まで闘い、最後はタケミカヅチ神に負け信濃に逃れます。


雷神であるタケミカヅチを祀る鹿島神宮は、中臣氏を祖としています。


タケミナカタ神vsタケミカヅチ神の国譲りに纏わる戦いは、鹿の神事vs亀の神事のような祭祀にまつわる側面もあった?のかもです。


祭祀において宮中で神祇官により使われたのは、鹿の骨でなく亀卜でした。


祭祀が太古は政治に密接に関わっていたため、祭祀方法の違いは、権力者が変わればやり方も変わったのかもしれません。


ところで、対馬には対馬文字という古代文字がありました。神事でひび割れがでて、それを適当によむだけなら信頼性も確かに無いですから文字へ変換して意味付けしたのですね。


亀卜のト兆から生まれた文字とされ、対馬の雷(いかつち)神社で行われる亀卜神事では、卦を読む際に対馬文字やアナイチ(神代文字)が用いられたようです。


アナイチ、天名地鎮(あないち)は、ウマシアシカビ字とも呼ばれるようです。今日では「神代」に実在した文字ではないとされているようですが、


しかし、ウマシアシカビヒコヂという神様は、日本神話では天地開闢にいて現れた別天津神様の一柱ですから、そんな名前がついた文字って神代に実在したのではないとか言われても、かなり古そうですけどね。🤭


日本にもこんな甲骨文字があったとは

驚きですね。日本の古代文字とか、じつはもっと掘り下げて研究すると面白い気がします。


中国のの卜占では、亀の甲羅や獣の肩甲骨に小さな穴を穿ち、熱した金属棒(青銅製)を穴に差し込むと、表側に卜形のひび割れが生じるようです。


事前に占うことを刻んでおき、割れ目の形で占い、判断を甲骨に刻みつけ、爾後占いの対象について実際に起きた結果が文字で追記され、それが甲骨文であるとありました。


何となく対馬文字もこんな感じで、神事の結果を記したのかもですね。


文字は大陸から漢字が伝わるまで無かった、とかいわれていますが、そんなことはなくて、結縄みたいに何かをキープする記すための形や文字を模索していた時代が、太古の日本にもあったのかもですね。






亀卜のはじまり

2022-09-26 06:42:00 | 神仏について

壱岐島に行った際に、武内宿禰の身代わりとなった壱伎直祖真根子氏の逸話を知り、祭祀が関わっているような気がしました。真根子氏は、中臣家の祖です。


その前に行った宇佐神宮では、神武天皇に宮をもうけてもてなしたウサツヒメと、神武天皇の家来を結婚させた話がありました。


その2人の祖霊を祀った御幣が宇佐の妻垣神社そばの足一騰宮の磐座に行く途中にあり、種子山神社にあり、タネコは説明に中臣氏の祖と書かれていました。





神武天皇とともに渡来した側近の方は、壱岐真根子ともきっと関係があり、また、ウサツヒメ(宇佐氏)とも婚縁関係をもった存在だとなりそうです。


その流れで中臣氏が宮中祭祀をしたり、宇佐神宮の神託が太古から重んじられてきたのかなと思いました。


中臣氏は、その後、忌部氏と宮中祭祀を巡り争います。忌部氏は負けて宮中祭祀は中臣氏へととってかわられます。



しかし、今では大嘗祭における宮中祭祀で中臣氏の流れを汲む亀卜の祭祀も、また、忌部氏の織物の祭祀も、共に復活しています。伝統を守っていて良かったなぁと感じています。


律令時代の7世紀後半には、国家の吉凶を占う手法として亀卜が採用され、伊豆5人・壱岐5人・対馬10人の三国卜部(さんごくうらべ)が占いの職能集団として朝廷に仕え重視されたようです。


今回の旅行では寄りませんでしたが、政祭一致の時代、壱岐島のそばの対馬は特に亀卜で有名で、占いのみならず、政治的な影響力も保持していたようです。亀卜をするから卜部(ウラベ)氏とよばれたりします。






平安時代になると安倍晴明などの陰陽師が活躍するようになります。陰陽をさらに木火土金水(5行)へ。


鎌倉時代になると武士が台頭し、対馬の卜部氏は力を失ったようですが、亀卜は対馬藩の公式行事として幕末まで存続したみたいです。



ところで、中国の太古の殷代には、王が祭祀の軍事などの王朝の重要事項について甲骨占卜をおこない、その結果に従って政策を実行していたようです。昔の殷王朝は神権政治とも呼ばれていました。


しかし、甲骨占卜は「吉兆」が出やすいように事前に加工がされていて、殷代の甲骨は裏側に窪みが彫られており、それによって表側に出現するひび割れの形をコントロールできたようです。


つまり、見かけ上では、甲骨占卜によってあらわれた神の意志によって政治をするという形ではあったけれど、実際には王が実行したい政策を甲骨占卜を通して正当化していたこともわかっています。


腐敗はいつの世もあり、また、神事や神様をなのりながら都合の良いことをいう存在もいつの時代もいたということでしょうね。


人が選び難いケース、例えば、大嘗祭で神様に奉納する新米の土地の選定などに、亀卜により答えを出して決着点とすれば、争いはなくなりますからいいですね。


しかし、


自分のことは誰かに頼り外に答えを求めるより、

自分の内なる神との調和し、和合、心の聲や直観に正直に生きたいなぁと感じています。