薩摩人の集まる所に犬と前髪建ての少年を連れて行ってはならない、というのは江戸時代の常識でした。なぜならどちらも食べられちゃうから(色んな意味で) #八重の桜
豊久が「戦場でん えのころ飯ちうて 腹ば減ったら野犬をば ひっつかまえ」って言ってた奴ね…(汗) >RT
「豊久が…」とか言ってたら関ヶ原の『島津の退き口』の地図がツイートされてきました!!タイミングが良すぎなので、もしもこちらのツイートに反応されてなら、ありがとうございますm(_ _)m >RT
足利三代木像梟首事件は幕末が好きな方には有名な事件なのですけれど、じゃあどうしてこの事件で、何百年も前にとっくに死んでいる私達の木像が狙われたのか
ざっくりと話すと、江戸時代、独立した武家政権のシンボルが、つまり私達三人だったのですね(´・ω・`) 本格的に天皇家から権力を奪い取った武士である、というわけ
江戸時代初期、水戸徳川家は全国漫遊したことになってる人のもとで、徳川家のための史書を編纂します。これが「大日本史」。
そして大日本史は、基本的に徳川がルーツを主張する新田の所属した南朝方を称揚し、同時に当時としては比較的確実な出典のある史料を選び出して編纂したわけなのですが
中世の「しっかりした歴史・思想を記した南朝方の本」という条件にガッチリ合致した本が、私達の天敵、北畠親房の「神皇正統記」だったのです(´ω`)
かくして親房卿の考え方というのはガッチリ「大日本史」の中に組み込まれてゆきます。そして大日本史を背景に、水戸を中心に成立した思想一派が「水戸学」という学問分野。
「大日本史」とその中に流れる南朝の思想を受け継いだ水戸学は、天皇家を国家の象徴にして機軸として考える「尊皇」、そしてその天皇家のためにそれを脅かす海外の敵を打ち破ろうという「攘夷」の考え方をこじらせ……げふん先鋭化させてゆくのです
ところが当初は徳川と武家政権の正当性を主張するためのものであったこの思想は、幕末になって「天皇家のために」「その権力を奪い取った幕府を討つ」という考えにすり替えられてゆくんですね
かくして親房卿の主張する「正統にして国家の象徴たる南朝の帝」から「武力で権力を奪い取った」「朝敵」として、私達は幕末勤皇の武士から憎悪を向けられるようになります。――その当時の幕府に重ね合わせて。
「徳川が朝廷に代わり政を行う正当性」を裏づけるためにあの「さきの副将軍」が編纂した史料が、倒幕の思想にも転換して利用される皮肉…。そして、知らぬ間にとばっちりな足利将軍達(汗) >RT
(現在にも続く帝の家系は、私達が支持した北朝の帝の流れなのですが)(そんなの、正当の帝のためにかっこよく戦う俺!に酔った「武士」たちには関係ないですしね)(´ω`)
実際もっと込み入った話があるけど、そのへんはまた今度(・∀・) 来週の八重は生首いっぱいのよ・か・ん!
NHKは『八重の桜』予告サイトの年表にしっかり「1861 アメリカで南北戦争勃発」と記入してたわけで、この扱いは罪深いぞ! NHKよ、お前らは全日本でヤンバルクイナより少ない南北野郎を決定的に敵に回した!
「お前らは全日本でヤンバルクイナより少ない南北野郎を決定的に敵に回した!」…それ、敵に回しても怖くないぞ、って自分で言ってることになるんじゃ!?(^^;) >RT
南北戦争クラスタ熱いな…… 太平記南北朝クラスタも、尊皇攘夷運動をその黎明たる蒙古との戦いや宋学の流入から描けって抗議活動すべきかな(・∀・)
太平記南北朝クラスタは、さすがに全日本でヤンバルクイナよりは多いと思いますw >RT
「さらば、父上」は パパ盛さまとのお別れでもあるし、義朝とダメ義パパの決別でもあるんだね。タイトルのダブルミーニング、ここにも。 #忠盛公860回忌 #平清盛
忠盛の形見分け、実際には経盛には「小枝」の笛があるはずじゃないのかな?でないと『平清盛』には登場してないけど敦盛の笛が…。 #忠盛公860回忌