土曜日のプロ野球。
巨人vsオリックス戦では、
オリックスの金子が9回までノーヒットピッチングを披露。
『もう、こんなピッチングをされたらどうしようもない』
という展開の中、
巨人の若きエース・菅野が奮闘。
踏ん張り、踏ん張り、また踏ん張り。
相手に得点を与えず、
ついには延長12回、
亀井の劇的弾で巨人が激勝しました。
しかしその後、
巨人の広報から、
衝撃の発表が。
かねてから入院加療を行っていた、
巨人・原監督の父親であり菅野投手の祖父でもある、
元東海大・東海大相模の名監督である原貢氏が亡くなった、
との発表でした。
『もう駄目かもしれない』
そんなことを入院した時にふと思っていましたが、
それにしてもこの訃報に触れると、
何だかさびしさを振り払うことができません。
ひとつの時代の終わりを、
感じる報でした。
ご存じの通り、
原辰徳氏の父親である原貢氏は、
昭和40年に無名の三池工業を率いて、
なんと全国制覇を成し遂げます。
ワタシはこのことの記憶は全くありませんが、
次に原氏が甲子園に勇躍登場するのは、
元祖タテジマのユニフォームを身に付けた1969年。
東海大相模の監督としてでした。
翌70年の夏。
ワタシの高校野球観戦の記憶は、
この年に始まります。
何しろ記憶に残っているのは、
『ド迫力の打線』
これ以外ありません。
毎試合失点を重ねる投手陣を、
打線が鋭く援護。
木のバットの時代にあって、
決勝を10-6という二けた得点で勝っての優勝というのは、
例にないのではないでしょうか。
ちなみに決勝の相手は、
こちらも当時は大阪の”新興勢力”であったPL学園。
その後プロで活躍する新見投手を擁していました。
ちなみにワタシの記憶に残っているのは、
余りにも点を取られ過ぎてガックリとした試合内容やプレーになってしまったPLナインに、
当時の球審がマウンドに行き内野陣を集めて、
いわゆる『叱咤激励』をしたことでした。
当時母親などと一緒にTVを見ていたと思うのですが、
『こんなシーン、見たことがない』
と言っていたのが、とても印象に残っています。
その後数年たって、
今度は前以上に、
強烈に『東海大相模のタテジマ』を意識させてくれるチームを作り、
原監督は再度甲子園に登場します。
それが昭和49年夏のチーム。
前年春の選抜優勝投手の永川を擁する横浜を破って甲子園に出場した東海大相模は、
原辰徳・津末・村中の1年生3人を擁した、
その後3年間甲子園を席巻し続けるチームでした。
まずは甲子園の初戦。
対戦相手は、
【関東三羽烏】の一人である工藤投手(元阪神)を擁した土浦日大。
大型チームを絵に描いたようなこのチームを相手に、
”若い”東海大相模のチームは、
前半押されながらも徐々にその打力を発揮しだして、
じわじわと押し返していきました。
それでも1点をリードされて迎えた最終回。
あっという間に2アウトを取られてから1塁にランナーを出すと、
原監督の『勝負勘』がここで冴えを見せて、
ランナーはすかさず盗塁。
そして2塁にランナーを置いて、
測ったように同点タイムリーが飛び出して、
同点に追いつきました。
そして延長に入り、
またも勝負師の指揮官は『勝負手』を打ち1年生村中をマウンドへ。
小柄で童顔のこの村中が、
土浦日大の大柄な打者の揃う打線をあざ笑うように、
小気味いいカーブと速球のコンビネーションで、
つけ入るスキを与えませんでした。
そしてついに延長16回。
この激闘は、
満塁から東海大相模の打者の打球がレフトに抜けた時、
終わりを迎えたのでした。
波に乗る東海大相模は3回戦の盈進(広島)との試合で、
その本領を発揮。
打つわ打つわ・・・・・・・・
恐ろしいばかりの破壊力を見せつけ二けた得点(確か13-6)。
進出した準々決勝で、
その年の『ヒーロー』となる定岡の鹿児島実と対決が組まれたのでした。
この試合も球史に残る大激闘。
長身から角度のある速球を投げる定岡に対して、
東海大相模は『全員攻撃』で対抗。
この試合も中盤から終盤にかけては劣勢。
しかし先の土浦日大戦同様、
9回2死から東海大相模は同点に追いつき、
延長に突入しました。
この当時の東海大相模。
9回2死と追い詰められたところから何度も逆転を演出。
【逆転の東海】
という風情たっぷりの、
粘り強さもひとつの持ち味でした。
それも、
『こんなところじゃ、絶対に負けられない』
という原監督の闘志が選手に乗り移ったような戦いぶりで、
やっぱり指揮官の『気合い』はチームカラーに色濃く反映されるものなんですね。
それから原監督、
この大会でも何度も放った『土壇場での勝負手』の冴え方、
尋常ではありませんでした。
やっぱりこの頃、
原監督を超えて野球というものの醍醐味を見せてくれる指揮官は、
いなかったと思います。
話を戻して鹿実戦。
この試合、
準々決勝の第4試合でしたので、
もう延長に入る前から、
カクテル光線に照らされての試合となりました。
(特にこの日は前の試合中に雨で中断などがあり、時間が押していたと記憶しています)
延長に入ってからは、
一進一退の攻防が続きました。
『都会的でスマートな』東海大相模のユニフォームと試合っぷり。
対する鹿実の『地方色あふれる泥臭い野球とシンプルなユニフォーム』のコントラストが鮮やかで、
ファンは食い入るように試合を見ていたと思います。
しかし当時、
NHKは試合終了まで放送してくれなかった!!(当該チームの地元以外)
ゆえに、
ワタシはこの試合、
最後の延長の途中からは、
ラジオを食い入るように聞いていたという記憶があるんです。
何分もう40年も昔の話なので、
遠い昔の話になってしまいましたが、
そんな懐かしい記憶とともに蘇ってくる激闘です。
延長の中で、
鹿実のセカンド(?)が『抜ければサヨナラ』というセンター前に抜けるかという小飛球に飛びついて取ってチームを救ったり、
何しろ延長に入ってからも『激闘』というくくりなしでは語れないほどの好勝負。
最後は延長15回表に鹿実が1点を取り、
東海大相模は追いつくことが出来ずに、
ついにこの激闘に決着がつきました。
いまだに甲子園史に燦然と輝くこの東海大相模vs鹿児島実。
前年の江川の記憶がまだ生々しい昭和49年も、
激闘に次ぐ激闘の甲子園でした。
この、
『甲子園で何かをやってくれる』
『甲子園の概念を変えてくれる』
東海大相模というチームは、
あの名将原貢監督の息子が、
凄い選手だということで、
この時から2年間、
社会現象とも言われるほどのフィーバーを起こしました。
この『甲子園フィーバー』は、
古くは三沢の太田幸司から、
この東海大相模を経て、
荒木の早実、やまびこ打線の池田、KKのPL,
そして平成に入って松坂の横浜、
駒大苫小牧、そして斎藤の早実と続いていきます。
ワタシがずっと見てきて肌感覚として感じるのは、
各話題の選手、チームはすごかったものの、
やっぱり最もすごかったのはこの、
『昭和49~51年の東海大相模フィーバー』
ではなかったかということです。
はっきり言って、
高校野球人気というのは、
この昭和40年代後半~50年代を経てKKのPLまでが最盛期ではないかと思っています。
斎藤クンの早実のフィーバーもすごかったのですが、
あれはやはり『マスコミが演出した感』が強かったものという感じがしますね。
原辰徳の東海大相模、
池田高校、PL学園なんかは、
とにかく『野球好き』ということだけではなく、
普段の一般の人々の会話の中でもよく語られるほど、
社会に浸透していた気がします。
まあ、
当時と今では『野球』というものの『地位』がだいぶ違いますからね。
仕方のない面もあるかもしれません。
それぐらい当時の東海大相模は、
凄かったということです。
昭和49年夏のそのセンセーショナルな登場で一気に火のついた『東海大相模熱』は、
昭和50年にはさらにヒートアップしていきます。
春の選抜に登場した東海大相模は、
準々決勝で初出場の栽監督率いる豊見城と対戦。
小気味いい投球の赤嶺投手を中心とした豊見城は、
判官びいきも手伝って完全な『甲子園のベビーフェイス』の地位を獲得。
準々決勝の”横綱”東海大相模戦でもその力を発揮して、
9回2死まで赤嶺が完璧に東海打線を抑えきって勝利は目前でした。
しかし『奇跡のチーム』東海大相模は、
またも『あと1死で敗戦』の崖っぷちから生還。
見事なる『まくり』で逆転サヨナラ勝ち。
その力をいかんなく発揮して、
決勝までコマを進めたのでした。
決勝は高知の名門、高知高校。
この大会では、
【東の東海大相模、西の高知】
と評される実力派で、
東海の原に対抗する大会屈指のスラッガー、杉村(現ヤクルトコーチ)を擁していました。
長嶋さんが引退したとはいえ、
『ニッポンの強打者は、サードを守る』
という時代。
2人はともに強打の三塁手で、
この試合で原辰徳が3塁打を放ちサードベースに立った時に、
何やら二人の【ヒーロー】がにこやかに言葉を掛け合っているような2ショット写真が残っています。
実にいい写真です。
ということで、
2人ともにこの決勝では大活躍。
延長の末高知が優勝を果たしますが、
この【準優勝】でますます東海大相模人気はヒートアップしました。
この夏の神奈川県大会。
まだハマスタ開場前のこの時代、
主要な対戦は主に保土ヶ谷球場で行われましたが、
入りきれないファンが、
毎試合球場の外に大挙しているという光景が見られました。
東海大相模は、
夏の県予選も勝ちぬいて2年連続甲子園へ。
順調に勝ち進んで準々決勝に進出しましたが、
そこに待っていたのはまさに伏兵の上尾高校。
『強打と粘りが身上』
のこの上尾高校。
この大会でも、
サヨナラHRなど、
派手な逆転劇の連続での勝ち上りでした。
ワタシはその当時埼玉県在住。
熱烈な『上尾高校サポーター』でした。
準々決勝で東海大相模との対戦が決まると、
『ここまでかあ・・・・・・』
と思ったことを鮮明に覚えています。
試合は前半から東海大相模が押しに押すものの、
何だか突き放すことが出来ずに2点だけのリードを持って終盤へ。
粘りが身上の上尾。
ここで得意の粘りを見せて、
8回に一挙3点を取って逆転。
そしてその裏、
東海大相模はチャンスで原辰徳の打席。
【逆転必至】
と思われたものの、
打ち上げた打球は広い甲子園のファールグラウンドでキャッチャーが取る、
キャッチャーファールフライ。
かくして東海大相模は、
この『3年間でも最強ではないか』と言われたこのチームで、
覇権を取ることが出来なかったのでした。
原、津末、村中の”ゴールデントリオ”の最終年は、
何だかすべてが『うまく回っていかない』年となりました。
まさかの秋季大会敗退で選抜甲子園の道を断たれ、
夏の甲子園には出場するものの、
2回戦で選抜準優勝の小山高校と激突。
この年の小山高校は、
黒田という大黒柱を擁して、まさに『関東NO1』のチームでした。
その小山とがっぷり四つに組んでの試合。
この試合も、
『甲子園名勝負』のひとつに数えてもいいぐらいの試合でした。
この大会。
選抜優勝の崇徳・黒田と、
選抜準優勝・小山の黒田。
この両投手は、
”センバツに出ていない”有力な優勝候補の、
酒井の海星高校と原の東海大相模に、
早々と当たってしまうということになりました。
崇徳 vs 海星
小山 vs 東海大相模
は、
キラ星の多かったこの大会の、
前半のハイライトでしたね。
そして・・・・
東海大相模の強力打線をもってしても、
”絶好調”の黒田の攻略は難しかった。
特に時折見せるスローカーブが、
東海大相模の打線を翻弄していきました。
『あっという間の完封劇』
の0-1、
そんなスコアで、
東海大相模、そして”ゴールデントリオ”の甲子園は、
あっけなく幕を閉じたのでした。
ちなみに、
もう一つの対決、
崇徳vs海星も、
1-0という同じような展開の末、
こちらは選抜優勝の崇徳を、
”サッシ-”海星の酒井が破り去ったのでした。
もひとつちなみに、
この大会、
”重量感たっぷり”の大型チームがひしめき合う中、
決勝は『どう見ても全員野球』という桜美林とPLの対戦となったのでした。
半世紀ぶりの東京vs大阪対決ということで、
大会自体は大いに盛り上がったのですが、
ワタシはこの大会を見てつくづく、
『野球って、わからんものだなあ』
という思いを強くしたのでした。
原貢監督はその後、
”ゴールデントリオ”とともに東海大に上がっていき、
大学野球界を席巻。
その後その”ゴールデントリオ”が大学を卒業すると、
また東海大相模の監督をやったり、
その後また東海大の監督をやったりということを繰り返し、
96年に勇退。
その後は時折登場していましたが、
一線を退き原辰徳監督を陰からサポートするという感じでしたね。
原貢氏を思い出すと、
やはりあの”ゴールデントリオ”の時代、
『ひきつけて、打って、打って、打ちまくれ!』
という東海大相模の野球が思い出されます。
『何という魅力的な野球だろう』
と思ったことを、
今思い出しますね。
今でいうと、
大阪桐蔭などの野球にその流れを見ることができますが、
40年前というあの当時でこんな野球を志向していたことが、
すごいことです。
たぶん【高校野球の王道】と言われた、
広島商を中心とする細かく1点を取りに行く野球を、
打破していき新しい時代を作っていこうとした『心意気』を強く感じることができます。
当時の東海大相模。
守りを一手に引き受ける『剛腕』は、
どの年のチームにもいませんでした。
その『守り』がやや弱い部分を、
『打線が強力サポート』という【究極の全員野球】、
それが原貢監督の目指す野球だったんだと思います。
今も脈々と生きるこの野球の源流を作った原貢監督の大往生に、
首を垂れます。
この原貢氏死去の報に触れ、
ワタシは原辰徳氏の父親、という見方は全くできません。
ましてや菅野投手の祖父なんて……。
『高校野球の大監督』原貢氏に、
合掌。
さあ、
現役の東海大相模の選手たち。
今年は夏の甲子園、
絶対に獲らなきゃダメだよ!
気合いはいってる?!