虹の彼方に ~ over the rainbow ~

好きな音楽、映画、本など、気ままに綴っているblogです♪ about the musics,films,books.

-世界をよこにつなげる思想- 須賀さんの本から伝わること。シンクロする今。

2013-12-22 20:15:08 | books


須賀 敦子 さん ( 1929年兵庫県生まれ - 1998年 ) の本は、文庫本で出ているものは、ほとんど、読んできました。

中でも、とりわけ、この忘れっぽい、わたしが、今も、覚えていて、

いつか、ブログに書こう、いや、書かなければ、と思っていた、とても、印象深い、言葉があります。

それは、


     『 世界を よこに つなげる 思想 』


という、「 本に読まれて 」 ( 1998年9月 刊行 ) という、須賀さんの書評集に、出てくる、

シモーヌ ・ ヴェイユについて、書かれた一節に、出てくる言葉です。


 “ 世界が よこに つながる ” ことが、いかに、大事なことか、ということに、

この、須賀さんの文章を、読んで、はじめて、気付かされました。


宮沢 賢治 と ヴェイユ が、重なるところ、など、もう、すでに、つながっていたのだ、

と思うと、ひょっとしたら、わたしが、気がつかないでいるだけで、世界のあちらこちらで、

実は、みな、つながっているのかもしれない。

何かに、目をくらまされて、大事なことに、気がつかないことのないように、しっかりと、目を覚ましていなければ、と思う。


そして、 賢治 や ヴェイユ が、書き遺したことは、決して、ただの理想でも、なんでもなく、まぎれもない真実なのだ。


子供時代を、戦火の中で、生き抜いた、 須賀さん は、わたしの父と、ほとんど、同世代です。

それまでは、何かと、忙しく、疎遠がちだった、父と、3.11 以降、話しをする機会が、増えました。


父が、どこで、生まれ、どのように、育ってきたか、今まで、まったく、関心がなかったのに、

なぜか、急に、知りたくなって ( わたしは、そのことについて、何一つ、知らなかった ) 、

なかなか、戦時中のことについて、話したがらない父を、なかば、説得するかたちで、少しずつ、知ることになりました。

父の幼少時代は、 須賀さん のいう、 「 軍事政権のいうなりだった 」 、というよりは、むしろ、

完全な、軍国主義少年であった、という事実に、わたしは、言葉を失い、愕然としました。

だからこそ ( いくつかの幸運もあって ) 、父は、生き残って、日本に、帰ることができた、ということを、

父は、いまだに、少しも、後悔することなく、「 ゼロ戦に乗って、死ぬのが、夢だった 」 と、誇らしげに、話してくれました。


須賀さん のように、たとえ、中学生であったとしても、戦時中のことを、後悔している、と、

公に、きちんと、告白した人は、はたして、どのくらい、いるのだろうか。

このような人を、わたしは、心から、尊敬します。


今の時代に、失われようとしている、大事なことを、1998年当時に、すでに、指摘していた、 須賀さん は、

未来を、まるで、予測していたかのように、思えてなりません。




( 以下、抜粋させていただきました )


 … ヴェイユという人について、はじめて聞いたのはいつのころだったろうか。戦後まもなく、

   受洗に反対する両親とすったもんだの挙句にカトリックになって、しかも、あっという間に、

   自分の信仰を戦時のフランスの抵抗運動と結びつける方向に私はのめりこんだ。

   ヨーロッパの知識人の多くが抵抗運動に深くかかわっていたことは、

   戦後いちはやく、日本にも伝わってきたが、そのなかで、カトリックの人たちが

   どんな位置をしめていたのかについての情報は、ほとんど手に入らなかった …


 … あっさりしたつきあいとは言っても、ヴェイユは、50年代の初頭に大学院で勉強していた私たち何人かの女子学生の

   仲間にとって、エディット ・ シュタイン とならんで、灯台のような存在だった。


 … 女性であること、知識人であること、しかも、信仰の問題に深くかかわり、結婚よりも自立を選んだことが、

   世間知らずでむこうみずな私たちにとっては、きらきらと輝く生き方に見えた。


   「 ユダヤ人が教会のそとにあるかぎり、じぶんはキリスト教徒にはならない 」 というヴェイユの信条に、

   息もできないほど感動していた時代があった。 …


 … 宮沢賢治の 「 世界が幸福にならないかぎり、自分ひとりの幸福はありえない 」 という言葉に、私は勝手にヴェイユを

   重ねあわせ、それを彼女のやさしさ、と解釈したのだった
が、いま彼女の著作の文脈に照らして考えてみると、

   それは厳しい論理と深淵な知識の上に立った力づよい選択だったにちがいない。 …


 … 1972年に出版された、リースというイギリス人が書いた 『 シモーヌ ・ ヴェイユ ある肖像の素描 』 ( 山崎 庸一郎 約 筑摩書房 )

   は、刊行年からみて、私が夫の死後、イタリアから帰って、もういちど生活の方向をたてなおそうとしていた時代に読んだらしい。


    「 多くのものが教会のそとにあります。わたしが愛していて棄てたくないと考えている多くのもの、

     また神の愛する多くのものがそとにあります。神が愛するのでなければ、それらのものは存在しないはずだからです。

     最近の20の世紀をのぞいて、過去の巨大な拡がりをなす、すべての世紀、有色人種の住むすべての国々、

     白人の国々におけるすべての世俗的な生活、その国々の歴史のなかで、マニ教やアルビジョワ派のように異端として非難されるすべての伝統、

     ルネサンスから出て、あまりにもしばしば堕落しているとしても、全然無価値とは言いがたいすべてのもの、そういうものが教会のそとにあります 」


     『 神をまちのぞむ 』 からのこの引用は、このしるしをつけた20年前から今日に至るまで、そしておそらくは、私の生のつづくかぎり、

     ずっと私のなかで、ヴェイユに大きく呼応するはずの部分である。

      教会の中か、そとか、というような性急な選択をすることはない、

     いまの私にはそんなふうに思える。それを決めるのは、おそらくは、私ではないはずだとさえ思える。
 …


 … 世界はいつも、じぶんの知らないところでつながっているようだ。

   フランスやイタリアには、青春の日々に、ヴェイユ や ムニエ や ペギー、サン = テグジュぺリ を読んでそだった世代というものがあるように思う。

   たまに、そういう人たちと出会うと、はじめて会った人でも、たちまち 「 つながって 」、時間のたつのをわすれて話しこんでしまう。

     中世までは、教会のラテン語をなかだちにして、ヨーロッパ世界はよこにつながっていた。

   戦後すぐの時代に芽ぶいたのは、中世思想の排他性をのりこえて、

   もっと大きな世界をよこにつなげるための思想だったのではないか。
 …


( 以上、抜粋させていただきました )




     




「 トリエステの坂道 」 ( 平成7年9月 刊行 )という、須賀さんのエッセイの、最後に、付録として、収められた、

「 古いハスのタネ 」 より、

( 以下、抜粋させていただきました )


 … 文学と宗教は、ふたつの離れた世界だ、と私は小声でいってみる。でも、

   もしかしたら、私という泥のなかには、信仰が、古いハスのタネのようにひそんでいるかもしれない。 …


( 以上、抜粋させていただきました )




     




「 遠い朝の本たち 」 ( 1998年4月 刊行 ) の “ 星と地球のあいだで ” より、

( 以下、抜粋させていただきました )


 … サンテグジュぺリが、ドイツ軍に占領されたフランスの解放をねがって、北アフリカで軍事行動に参加中、

   1944年、偵察飛行に出たまま行方不明になったという話しが私の意識を刺しつづけた。

   自分は、中学生だったとはいえ、

   戦争中なにも考えることなく軍事政権のいうなりになっていたことが口惜しく、

   彼のような生き方への憧憬は年齢とともに私のなかでつよくなった。

   行動をともなわない文学は、というような口はばったい批判、理論ともいえないような理論を

   友人たちと論じてすごした時間を、いまはとりかえしたい気持ちだし、

   自分は、行動だけに振れたり、文学にとじこもろうとしたり、

   究極の均衡 ( そんなものがあるとすれば、だが ) に至るのはいつも困難だった。

   自分にとっては人間とその運命にこだわりつづけることが、

   文学にも行動にも安全な中心をもたらすひとつの手段であるらしいと理解するまで、ずいぶん道が長かった。
 …


( 以上、抜粋させていただきました )




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『本に読まれて』 須賀敦子 著 より 「松山さんの歩幅」 を読んで思ったこと

2013-07-12 23:54:42 | books


春から初夏の、庭の植え替えが、終わったと思ったら、あっという間に、梅雨が過ぎ去り、

この猛暑の中、毎朝毎夕の水やりで、ほとんど、疲れ果てて、エアコンのよくきいた部屋で、

もっぱら、読書をしている、というのが、ほぼ、わたしの日課です。

その間に、おちびさんたちのお世話と、学校への送迎、というのが、入るのですが ^ ^;


大好きな、須賀 敦子さんの、 『 本に読まれて 』 という本 ( 彼女の書評集です ) を、今、愛読しています

わたしが、ものごころついた頃から、なんとなく、感じていた、ある種の “ 違和感 ” とでもいうのでしょうか、

きゅうくつで、息苦しく、どうも、反射的に、なじめない、という、うまく説明できないような感覚が、

そこには、まるで、わたしの想いを、代弁してくれたかのように、ズバリと、描いてあったのに、驚きました。

わたしの中で、湧きおこっていた、すべての疑問に、答えてくれていて、読んだあとに、

「 あ、これだ。このことだったんだ! 」 と、合点がいって、妙な、すがすがしさを覚え、

放置してあったブログを、思い出して、書かずにはいられなくなったのです


『 松山さんの歩幅 』 ~ 松山 巌 百年の棲家 ~ という章に、こんなことが、描いてありました。

ドイツのボイロン大修道院から来た、 ヒルデブラント ・ フォン ・ ヤイゼン という名の神父が、

著者が、通っていた大学の、ヨーロッパの教会建築史 の講義をしていたときのこと。

「 ある日、どういうきっかけだったか、彼は、自分がもといたボイロンの大修道院の建物の天井が、

どれほど高いかということを私たちに理解させようとして、躍起になっていた。

そして、戦後、アメリカからの寄付やらバザーやらで、やっとこさ新築なった教室の天井を見上げて、

もう我慢できない、というように声をはりあげると、こう叫んだ。

こんなちっぽけな、こんな思想のない建物で暮らしていたら、きみたちはこれっぽっちの人間になるぞ。

建物が人間を造るということを、よくおぼえておきなさい。」



著者が、彼女のミラノの友人を、日本の彼女の家に招いたときのこと。

「 ああ、いい仮住まいだねえ、と彼は入ってくるなり、私がやっとローンを払い終えた部屋を、眺めまわしていった。

Pied a terre ピエダテールという、彼がその時使ったことばを辞書でひくと、仮住まい、なのである。

ふつう、 ≪ ほんとうの家 ≫ が田舎なんかにあって、都会で一時的に小さな部屋を借りる、

そんな住居のことをこう呼ぶのだが、友人がねぎらうつもりで使ったそのことばに私は、内心しょんぼりして、

ミラノにいた頃借りていた、私が生まれた年に建ったという、質素だけれど、厚ぼったい建築のアパートメントを

思い出したりした。どの部屋のドアにも、エンジニアだった家主さんのお父さんがホビーで描いた、

アールヌヴォーふうのガラス絵がついていて、住んでいるうちから、なつかしいような家だった。」


「 明治維新このかたの百三十年ちかくを、私たちは、なにかにつけ不本意に生きてきた。

日常生活の面でも、思想や哲学の分野でも、西洋と東洋の谷間に墜落したまま、

あっちでもない、こっちでもないと道に迷いながら、息を切らせ、青い顔をして歩いてきたように思える。

いや、都市計画や建築に関するかぎり、現在もまだ迷いつづけ、ひどい息切れから解放されないでいる。

その間、建物も道路も、どうすれば、より ≪ 大きな富 ≫ にたどりつくか、より ≪ 便利な ≫ 道路を造るか

という考え ( といっても、欲望、にすぎないから思想とはいえない ) にとりつかれた人たちの手で、

かなり一方的に計画が進行し、実行に移された。その結果、ほんとうはなにより大切なはずの、都市、

あるいは街路の在りようについての思想を探求することも、また、そこに棲む人間がほんとうはどのように

自分たちをとりまく環境と関係すればよいかについてじっくり考えることも、すべて後まわしにしてきた。

役に立つ、あるいは便利なものだけが求められた結果、多くの建物と街の眺めが破壊され、

そこに棲む人たちの心が踏みにじられ、そのために健康までが蝕まれているいま、

私たち日本の大都会に暮らす人間の多くは、愕然として、 ≪ こんなことになってしまった ≫ この街を眺めている。」



「 … 施政者たちが住宅と名づけるものの周囲には子供たちが走りまわれる空間がまったく不在でも、

普請中だ、過度期なんだから、と私たちは我慢を強いられ、我慢してきた。

走れ、といわれ夢中で走ってきた私たちは、ふたたび崖っぷちに立たされて、もしかしたら自分自身が落ちるかもしれない

底知れない奈落を眺めているような気もする。」



「 松山さんの本を読んでいると、ひとりひとりの人間にふさわしい歩幅、ということばが頭に浮かぶ。

明治からずっと、私たちが慢性の病気みたいに背負いこんでしまった生活のズレをふせぐには、

なにをするに当たっても、人それぞれの歩幅を、大切なものさしのように、しっかりと心の底に沈めておかなければいけないのではないか。

それなのに私たちは、国民の歩幅だとか、ひどいときには都民の歩幅などという、らんぼうで納得のいかない歩幅で歩かせられてきた。

いや、歩いてきた。

戦後しばらくのころのある夏の日、大手町近辺の道路を横断していて、どうしてもふつうの歩幅では、

信号が赤になるまえに渡りきれないことに、びっくりし、ふんがいしたことがあったのが、はっきりと記憶にある。

だけど、あれはほんの始まり、ほんのエピソードでしかなかったのだ。」



「 … そのころ、やがて自分が家をもつだろう、という考えにはとても至らなかったし、民主主義教育も受けていなかったから、

都市の在りようについて自分も口を挟む権利と義務があるということも、はっきりとした自覚をもたなかった。

でも、将来というようなものをこころに描くとき、この焼け跡よりはずっとましなもの、あかるい状況になるだろう、

と想像していたのはたしかだ。」



『 本に読まれて 』 が、書かれたのは、1998年です。

そして、2013年の今もなお、同じことが、くり返されているように思うのは、わたしだけだろうか。

それも、復興、という名のもとに。

須賀さんが、戦後に思ったように、あかるい状況になるだろう、と、今、将来に希望をもって、想像できる人は、

はたして、日本にどのくらいいるだろうか。




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Ash Wednesday (灰の水曜日) と 最近読んでいる本たち

2013-02-13 12:35:30 | books


今日は、2013年 2月13日の水曜日、 

灰の水曜日 です。

これから、40日間、 “ 神さまに心を向ける ” 日々を過ごします。


( 以下、 Paoline Laudate 女子パウロ会公式サイト 様、教会カレンダー より、抜粋させていただきました )


 典礼は、灰の水曜日から四旬節に入ります。

 イエスが宣教生活に入られる前に砂漠で40日間断食をされたことにならい、教会生活の伝統では断食、節制が行われてきました。

 ラテン語のクワドラジェジマ(Quadragesima:四旬節)の40という日数の象徴的原型は、まさにこのイエスの40日の体験にあるのです。40という数は、旧約の時代からすでに象徴的な意味をもっていましたが、キリスト者はキリストの断食と祈りに倣いたいという思いから自然にキリスト者の中におこってきたものです。

 キリスト教国でない日本では、四旬節のはじめである灰の水曜日と主の受難(聖金曜日)を、大斎(たいさい)・小斎(しょうさい)の日と定めています。
 大斎や小斎は、自分の心を神や人々にささげることのしるしです。四旬節にはことにその精神で生きたいものです。

 灰の水曜日ではじまる四旬節の40日間(日曜日は数えない)は、1年の典礼の頂点である復活祭を目指しての準備期間です。  四旬節は、

  洗礼の準備

  回心と罪の償い

という性格をもっています。

 教会は3世紀ごろから四旬節を洗礼準備の季節としてきました。この期間、洗礼志願者だけでなく、全教会の信徒たちが志願者たちのために祈り、また自分たちの洗礼の時を思い起こし、洗礼の約束を更新する準備をします。

 教会は、この期間を、なによりも主イエスの受難と死を思い起こし、救いの「時」の中心に向かって、回心と償いの期間として過ごします

 この期間に、教会は、私たちの心が本当にどこに向かっているのかを問いかけ、自己中心から神と人々に向かう「心の転換」(回心)を呼びかけています

 今日行われる「灰の式」は、「土から出て土に帰っていく私たちが、四旬節の努めに励み、罪のゆるしを受けて新しいいのちを得、復活されたおん子の姿にあやかることができるように」願って、昨年枝の主日に祝福していただいた、棕櫚(しゅろ)やオリーブの枝を燃やした灰を司祭は一人ひとりの額にかける式も行われます。

 灰をうけた私たちは自分に頼るのではなく、回心を呼びかけておられる神に信頼して生きることができるように嘆願します。


( 以上、 Paoline Laudate 女子パウロ会公式サイト 様、教会カレンダー より、抜粋させていただきました )


今日、近くの教会に、初めてお電話をかけて、神父様に

「 おちびちゃんたちが、障がいをもっているので、毎週日曜日のミサを、見学させてもらうのは、少々、難しいこと、それでも、ゆくゆくは、洗礼を受けたい 」

ということなどを、お話しました。

平日の午前に、聖書の勉強会がある、とのことで、そちらにこられるように、とのお知らせを受けました。

震災があってから … ほんとうは、かねてから、呼ばれていたかのように、ふと、新約聖書 ( フランシスコ会の訳注付き改訂版 ) を読むようになって、

今は、 “ ガラテヤ人への手紙 ” のところまで読みました。

自分が大事だと思った箇所に、付箋を貼って、その言葉を書いたりしています

これからは、なにごともなく、無事に、勉強会に行けるといいなあと思っています


     

     マイ ・ ニューテスタメント。栞代わりに、去年の夏に庭で摘んだラベンダーの束をはさんでいるので、ページをめくると、ラベンダーの良い香りに包まれます。


     

     我が家の玄関にかけてある、たぶん、イタリアの聖母子画です。おととし、ちびすけが入院して、お見舞いの帰りに、
     東京の聖マリア大聖堂にお祈りに行ったときに、お守りとして、この絵のカードを買いました。




     

     もう、すでに、読んでしまった、須賀敦子さんの本たちです。再び、読んでいきたい本たち。
     未定稿のままの 『 アルザスの曲がりくねった道 』 、読んでみたかったです …
     今、須賀さんが、生きておられたら、どんな言葉を紡いでいるのでしょうか。




     

     今、読んでいる本たちです。ほとんどが中古で、だいぶ安く買いました。
     『 Tree 』 と 『 Forest 』 は、先日、長野県飯山市の 森の家 に行ったときに、ラウンジのライブラリーに置いてあったのを見つけて、すごく読みたかったけれど、
     ちびすけがいっしょだったので 、パラッとめくった程度で、帰ってきてしまい … 後でメモしておいて、探した中古本です。


フランクルの 『 夜と霧 』 ( 原題 : 「 心理学者、強制収容所を体験する 」 ) は、一週間くらいで、読みました。

気がついたら、夢中で読んでいましたね …  

歴史に学ばないと ( 特に、あまり学校では教わらない、現代史 ) 、わたしたちは、これから、未来を築いていけない、

と再び、思い知らされた、貴重な一冊です。




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最近買ったCDと読んでいる本

2010-09-13 14:35:42 | books


ご訪問してくださり、ありがとうございます


           


こんにちは。 すっかりご無沙汰していますが  こちらも、まだまだ暑い日が続いています

スーパーに買い物に行くと、秋もの食品が並んでいて、 「 あ~ そっかあ! 」 と、

季節が、秋に変わる頃なんだなと、思い出したように、ブログを放置していたことを、思い出し

( というか、 PC の前から、ずっと遠ざかっていました ) 、

「 そろそろ、ブログの衣替え?でもしようかな

と思い立って、筆を執ったしだいなのです


それで、書いてみようと思ったのが、最近買った CD と 最近読んでいる本

について。


最近、買った CD は、 ( 上の写真の上左から ) Thom Yorke の 06年にリリースされたソロ ・ アルバム 『 THE ERASER 』 、

MASSIVE ATTACK の 10年にリリースされたアルバム『 HELIGO LAND 』 、 ( 上の写真の下左から )

Sigur Ros の vocal , guitar , piano , etc の、 jonsi の 10年にリリースされたアルバム 『 go 』 、

10年のスタジオジブリ作品 『 借りぐらしのアリエッティ 』 のイメージ歌集アルバム、セシル ・ コルベル の 『 借りぐらし 』

( ケルトのハープ?とセシルのフォトや、歌詞と楽譜が載っている、小人サイズのような、

かわいらしいミニブックが付いていました ) 、などです。

撮り忘れたけれど、 Flying Lotus の 10年にリリースされたアルバム 『 CosmoGramma 』 も聴いています


今までずっと気になっていたんだけど、『 THE ERASER 』 を、今頃になって、ちゃんと聴きはじめて …

「 やっぱ、すごい! 」 と思いましたね。 何がすごいかっていうと、

直接、体に作用するもの、としての音楽のあり方、ってこんな感じかなと思ったこと。

歌声、音、メロディの流れ、表現しようとしていることが、切実に響いてくるのに、なぜか、妙に、心地よい。


『 HELIGO LAND 』 は、 1曲目の 『 PRAY FOR RAIN 』 がいちばん好きです

( ほんとに、こちらは、もう1カ月以上、まとまった雨が降っていないものですから )。

アルバムを通して聴いて、やっと、ゼロ年代に、追いついた感じがしました。いちおう、今年発売の CD だし ^ ^;

フライング ・ ロータス を聴いても思ったんだけど、今まで、聴いたことのない、新しい、近未来的なサウンドでしたね。

ふだん、ほとんど、都会には出ず、子育てに、庭仕事に、はげんでいる自分としては、

すごい、異質感を覚えるのだけれど ( 笑 ) 、片田舎にいながらも、

デザイナーのスタジオやオフィスなどの、洗礼された空間で、かかっていそうな曲で、

そんなクールさを、体感できる感じがすばらしいです。

『 go 』 は、とにかく、はじけてます !!

ヨンシーは、ソロになって、こんなことがやりたかったんだなあと、うなずいてしまう、

Sigur Ros とは、また違った、アップテンポの曲があって、ライヴに行ったら、

たぶん、しぜんに体が動いて、ずっとジャンプしているだろうと思わせる曲たちが、爽やかに炸裂しています


『 借りぐらし 』 は、ケルトの文化や民話、伝統音楽が、大好きなわたしにとっては、

たまらないアルバムですね

セシルの歌声も、透明でかわいらしくて、まるで、妖精が歌っているように、聴こえてきます




Arrietty's Song / Cecile Corbel ( セシル・コルベル )


セシル ・ コルベル のアルバム 『 借りぐらし 』 には、この曲の英語ヴァージョンも入っています。




Jonsi - Go Do (Full HQ)


jonsi のソロ ・ アルバム 『 go 』 より、 『 go do 』 です。




Massive Attack - Pray For Rain


Massive Attack のアルバム 『 HELIGO LAND 』 より、 『 PRAY FOR RAIN 』 です。




( 動画が消えていましたら、ごめんなさい




   

最近、読んでいる本は、 ( 写真の上左から ) チェーホフ の 『 三人姉妹 』 、 メアリー ・ ノートン の 『 床下の小人たち 』 、

( 写真の下左から ) 大江 健三郎 の 『 新しい人よ 眼ざめよ 』 、 『 恢復する家族 』 、 『 個人的な体験 』 、などです

本については、また、機会がありましたら、書きたいと思います。


あっ、そうそう! 最近、刑事ドラマが、花盛りですね ~ !!

わたしが、毎週欠かさず見ているのは、火曜の夜9時からフジでやっている、

『 JOKER 許されざる捜査官 』 と、 金曜の夜11時からテレ朝でやっている 『 熱海の捜査官 ? 』 です。

これ、ふたつとも、めちゃくちゃ、おもしろいです!!

同じ刑事ものでも、まったく違った趣のドラマで、どちらも、今までにない、個性的なドラマです。

まったく、先が読めなくて、見ればみるほど、はまってしまう、連ドラのつぼを、みごとにとらえたドラマで、

目が放せませんー!! どちらも、わたしの好きな俳優さんが、主演されているので、見はじめたのですが、

さすが! こんなにおもしろいとは ~   もうすぐ最終回ですね。




         


読んでくださり、ありがとうございます

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童話とアニメ 『 銀河鉄道の夜 』

2010-02-07 03:42:17 | books


ご訪問してくださり、ありがとうございます


            


宮沢 賢治 [ Kenji Miyazawa ] ( 1896年 ― 1933年 ) 作の、

小説 『 銀河鉄道の夜 』 ( 『 Night on the Galactic Railroad 』 )

を、はじめて、読んだのは、中学生くらいの頃でした。


当時、わたしの通っていた、小学校の国語の教科書に、宮沢 賢治 作の

『 やまなし 』 という詩が、載っていました。

何度も、音読した、この詩に、不思議な感動を、覚えて、以来、

宮沢 賢治 の童話を、読むようになりました


同じく、当時の教科書に、載っていた、宮沢 賢治 作の 『 永訣の朝 』

という詩を、読んでは、涙を、流しました。


そうして、宮沢 賢治の作品も、言い伝えられている、人となりも、
大好きになりました  そして、とても、尊敬しています


10数年前に、宮沢 賢治ゆかりの地を、訪ねて、岩手県に、旅したことがあります。

当時、賢治が、花巻農学校 ( 現在の、岩手県立花巻農業高等学校 ) の先生をしていた頃、

賢治は、羅須地人協会を、設立し、昼間は、自ら、農作業にいそしみ、

夜になると、農民たちを集め、科学やエスペラント、農業技術などを教えたそうです


旅の道中に、賢治ゆかりの地を、めぐっていたときに、

『 賢治先生の家 』 ( 羅須地人協会 ) と言われていた、

岩手県立花巻農業高等学校の敷地内にある、ニ階建ての家を、拝見させてもらったときに

( 一般に、公開されています ) 、

玄関の壁に、黒板があって、そこに、当時のままに、

「 下ノ 畑ニ 居リマス 賢治 」

と、白いチョークで、書かれてありました。

それを、目にした瞬間、時が、タイムスリップしたような、不思議な思いがしました。

本当に、畑仕事をしていて、留守にしているようで、もう少ししたら、

こちらへ、賢治が、戻られるのではないか、と当時の様子が、しのばれました。


また、賢治は、周囲の人々を集めて、レコードの鑑賞会や、

子ども向けの童話の朗読会も、されていたそうです。


旅を終えて、その後に、 『 銀河鉄道の夜 』 の絵本を、見つけたときは、

とても、うれしかったですね!

おちびが、生まれて、大きくなってから、何度か、読み聞かせをしました

お話の内容は、おちびには、難しいのですが、 藤城 清冶 さんの絵が、素晴らしいので、

絵だけでも、知ってもらえたらと思いまして …


1985年に、杉井 ギサブロー 監督により、宮沢 賢治 作の 『 銀河鉄道の夜 』 の、

劇場アニメーションが、作られて、公開されたました


プロデューサーに、原 正人、田代 敦巳、原案に、ますむら ひろし、

脚本に、別役 実、音楽に、細野 晴臣、美術に、馬郡 美保子、

( 敬称略 ) スタッフは、以上の方々です。


主人公や、主要な登場人物を、猫の姿に擬人化してあって、

とても、ユニークで、独特な世界観が、生まれています。




銀河鉄道の夜


   細野 晴臣 さんの音楽が、すばらしいです!




宮沢賢治 星めぐりの歌 (歌)



『 星めぐりの歌 』   作詞 ・ 作曲  宮沢 賢治 


あかいめだまの さそり  ひろげた鷲の  つばさ

あをいめだめの 小いぬ  ひかりのへびの とぐろ

オリオンは高く うたひ  つゆとしもとを おとす

アンドロメダの くもは  さかなのくちの かたち

大ぐまのあしを きたに  五つのばした  ところ

小熊のひたいの うへは  そらのめぐりの めあて



一度、聴いたら、忘れられない、優しくて、美しい、心に残る、素晴らしい歌ですね




「銀河鉄道の夜」予告編(日本語版)


KAGAYA スタジオ制作のプラネタリウム番組 『 銀河鉄道の夜 』 の予告編です。

昨年、この特集が、上映される日に、さいたま市青少年宇宙科学館に、見に行きました。

プラネタリウムのドームいっぱい、360°に広がる銀河のパノラマ風景を、

楽しむことができて、素晴らしかったです




Trailer of "The Celestial Railroad"(English version)by KAGAYA Studio





( 動画が、消えていましたら、ごめんなさい




宮沢 賢治が、作詞 ・ 作曲した、 『 星めぐりの歌 』 の冒頭の部分の、

「 あかいめだまの さそり  ひろげた鷲の  つばさ

  あをいめだめの 小いぬ  ひかりのへびの とぐろ 」

のところの歌を、どこかで、聴いたことがあるなあ、としばらく考えていたら、

黒沢 清 監督作品の2002年の映画 『 アカルイミライ 』 に、登場する、

守の父役の、俳優 藤 竜也 さんが、映画の中で、はな歌のように、歌っていたのが、

この 『 星めぐりの歌 』 でした。


映画 『 アカルイミライ 』 を、見てから、ずっと、この歌のフレーズが、

印象に残っていて、今になって、やっと、知ることができて、

すごい、うれしいですね




             

  
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読んでくださり、ありがとうございます

それでは、また。。。

蒼井 優 の選んだ1冊  『 旅をする木 』  星野 道夫 著

2009-04-01 08:01:19 | books
グリムス キーワード「二十四節気」


ご訪問してくださり、ありがとうございます



NHKハイヴィジョンで、 ’ 09年2月28日に、放送された、

『 私の1冊 日本の100冊 』 という番組を、見ました。


毎回、ゲストの方が、ご自身のおすすめの1冊の本を、

紹介する番組で、この回では、女優の 蒼井 優 さんが、

星野 道夫 ( 1952 - 1996 ) 著 

『 旅をする木 』 という、1冊の本を、紹介していました。




NHK BS 2 / ハイヴィジョン 番組 『 私の1冊 日本の100冊 』 
女優  蒼井 優 さん の 選んだ 1冊 『 旅をする木 』 星野 道夫 著





ナレーション ( 首藤 奈知子 さん ) 

「 アラスカの壮大な自然に魅せられ、

そこに暮らし、その魅力を伝えた写真家、

星野 道夫 ( ほしの みちお )。

18年にわたった、アラスカでの生活を綴ったエッセイ、

『 旅をする木 』 を、すすめるのは、

女優 蒼井 優 さんです。 」


蒼井 優 さん

「 この 『 旅をする木 』 を見なおしたり、

あと、思い出したりすることによって …

すごく、肩の力を抜いてくれたりだとか、

視野をファーっと、広げてくれたりする。

本当に ( この本に ) 出逢えてよかったなと思えるし、

いろんな人に、この本に出逢ってほしいなと … 思える本です 」


ナレーション ( 首藤 奈知子 さん )

「 星野 道夫 が、筆を尽くして、描くのは、

季節の移り変わりを、いとおしむ、著者自身の心です。 」


朗読 ( 松平 定知 さん )




秋は、こんなに美しいのに、

なぜか、人の気持ちを焦らせます。


短い極北の夏があっという間に

過ぎ去ってしまったからでしょうか。


それとも、長く暗い冬が

もうすぐそこまで

来ているからでしょうか。


初雪さえ降ってしまえば

覚悟はでき、もう気持ちは

落ち着くというのに ……


そしてぼくは、

そんな秋の気配が好きです。


一年に一度、名残惜しく

過ぎてゆくものに、

この世で何度めぐり合えるのか。


その回数をかぞえるほど、

人の一生の短さを知ることは

ないのかもしれません。



『 旅をする木 』 星野 道夫 著 より



蒼井 優 さん

「 私、 『 旅をする木 』 を読んでいて、

いちばん感じたことが、自然の中に、

こんなに “ 言葉 ” が、 あふれている、

っていうことに、感動したんです。

私は … あの … 秋から冬にかけて、の匂いが変わる瞬間が、

好きなんですけど、そのタイミングに、日本にいることが、

なかなか、なかったりするんですけど、

それを、感じられたら、すごく幸せな気持ちになりますね 」


朗読 ( 松平 定知 さん )




毎年三月になると、

オーロラの撮影のため

ルース氷河に入った。


それは、壮大な自然の劇場で、

宇宙のドラマをたった一人の観客として

見るような体験だった。


ぼくはこの時間を

誰かと共有したかった。


感受性の鋭い子どもの頃に

こんな風景を見ることができたなら

どんなに強い記憶として

残ってゆくだろう。



『 旅をする木 』 星野 道夫 著 より



蒼井 優 さん

「 私が … 小学生 … 幼稚園、小学生の時に、よく父に、

星を見せに、連れて行かれたっていう感じだったんですけど、

当時は、その … 毎日毎日、父から星の話を聞くので、

星を見る感動とかも、特になくて、なんか …

その時は、もう、寒いし、眠いし( 笑 ) みたいな感じで … 。

喜んでついて行ってたわけではなかったんですけど、

今となっては、本当に、なんか、こう、

そんなに、一生懸命見てた記憶は、ないんですけど、

でも、その時見た星空とか、鮮明に残っていたりして、

で、今となっては、本当に、いい思い出だったなあと、

いい経験をしたなあって、思えるので … 」


ナレーション ( 首藤 奈知子 さん )

「 アラスカの大自然の中で、星野が感じるのは、

人間の生きている時間とは、別の、もう一つの時の流れ、です。 」


朗読 ( 松平 定知 さん )




ある日の夕暮れ、

ザトウクジラの群れに出会った。


ぼくたちは、小さな船で、

潮を吹き上げながら進む

クジラのあとを

ゆっくりと追っていた。


その時である。

突然、一頭のクジラが

目の前の海面から飛び上がったのだ。


巨体は空へ飛び立つように

宙へ舞い上がり、


一瞬止まったかと思うと、

そのままゆっくりと落下しながら

海を爆発させていった。


それは、映画のスローモーションを

見ているような壮大なシーンだった。


ぼくたちが毎日を

生きている同じ瞬間、


もうひとつの時間が、

確実に、ゆったりと流れている。


日々の暮らしの中で、

心の片隅にそのことを

意識できるかどうか、


それは、天と地の差ほど大きい。




『 旅をする木 』 星野 道夫 著 より




蒼井 優 さん

「 これを読んだ時に、あ、そっか、今、どこかで、

世界のどこかで、クジラが、宙返りしているかもしれない、

とも、考えただけで、あぁ、すごい …  なんか、ここが

( と、両手を広げて、まるく、胸のあたりから、

外側へ、円を描くようにして )

ファーとなる感じがあるなあ、とも思ったし、

それは、自然だけじゃなくて、例えば、こう、

あぁ、あの時、あの旅をした時に、

出会った、キツネはどうしてるかな、とか、

友達の時間を、今の時間、と想像するのだったり、

家族の今の時間を、想像するだけでも、

世界は、ここだけじゃない、って思うだけでも、

すごく …  強くなったり、

気持ちが、楽になったりすることも、あるので …
 」


ナレーション ( 首藤 奈知子 さん )

「 吹雪のテントの中、星野は、無線で、

初めての子供の誕生を、知らされます。 」


朗読 ( 松平 定知 さん )





頬を撫でる極北の風の感触、


夏のツンドラの甘い匂い、


白夜の淡い光、


見過ごしそうな小さな


ワスレナグサのたたずまい ……


ふと立ち止まり、

少し気持ちを込めて、


五感の記憶の中に

そんな風景を残してゆきたい。


何も生み出すことのない、

ただ流れてゆく時を、大切にしたい。


あわただしい、

人間の日々の営みと並行して、


もうひとつの時間が流れていることを、

いつも心のどこかで感じていたい。


そんなことを、いつの日か、

自分の子供に伝えてゆけるだろうか。




『 旅をする木 』 星野 道夫 著 より




ナレーション ( 首藤 奈知子 さん )

「 1996年、 星野 道夫 は、ロシア ・ カムチャツカ半島、

クリル湖畔のテントで、ヒグマに襲われ、亡くなります … 。

43歳でした … 。 」


蒼井 優 さん

「 何かのとりこになって、そこで、守るべきものを見つけて …

それは、なんだろう …  

形あるもの、そうじゃなく、自分の中にあるもの、

そういうものを、見つけて、生きられる、っていうのは、

本当に、強いなあと、思いました。

だから …  自分も …  まだ …  これだ!っていうものが、

これだ ー !! って思う時も、あれば、

これか ~ !? って思う時も、あるので、

そういうものを、ちゃんと持てたらなあと … 。

なんか、こう …  

それは、きっと、いろいろ、追い求めて、

見つかるものじゃないと思うし、

きっと、しぜんと、出逢うものだと思っているので、

その日が来るのが、楽しみです
 」


ナレーション  ( 首藤 奈知子 さん )

「 蒼井 優 さん の 一冊 、 

星野 道夫 『 旅をする木 』

( 文藝春秋 、新潮社 より 刊行 ) でした。 」










 女優 蒼井 優 さんの選んだ

   『 私の1冊 日本の100冊 』

      という番組を、見た感想 




まず、この番組を見て、思ったことが、

すごい次元の話をしてるなあ、ってことでしたね。

「 この世で何度めぐり合えるのか。 」

のところは、ずっと前に、何かのきっかけで、

そういうことを、考えたことがあって …

雨上がりに、虹を見たときとか、

天文台に行って、肉眼で天の川を見たとき … かなあ?


今、この一瞬でしか、感じることのできない、

なにものにも、かえがたい 「 大事なひととき 」 。


BUMP のライヴに、初めて行ったときも、そう思ったな …

おちびたちの寝顔を見て、なんてかわいいんだろ ~

( 思いっきり、親カバですね

なんて、日常の、なにげないことなのに、愛おしく感じる

ときでも、そう思うことがありますね。


「 日々の暮らしの中で、

心の片隅にそのことを

意識できるかどうか、


それは、天と地の差ほど大きい。 」



のところなど、ある意味、

「 地球規模で、共有する思い 」 みたいな、

ものすごい、大っきな心を、もっていて、

それを、こうして、表現されて、人々に伝えようとした、

星野 道夫 さんの、天から与えられた、「 使命 」

みたいなものを、感じてしまいます … 。


このようなことを、ご自身なりに、考えて、共感できる

蒼井 優 さんって、すごいなあ、と思いました。

まだ若いのに、物事を達観している感じが、

しますね。


わたしが、優さんの歳の頃に、

こんな、すごいことを、考えていたかというと … ???

今からでも、遅くはないかなと、

開き直ろうと思います


こんな、素晴らしい本に、出逢うことができて、

本当に、良かったなあと、心から思っています





読んでくれて、ありがとうです  

ほいじゃ、また。。。


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『 誰がほんとを 』

2008-09-23 00:10:18 | books


子供が、最近、自分のことに、気が付きはじめてしまって…。

そのことで、自分を、ものすごく責めたり、私を、つい責めて

しまったりして、よけい、悩んでいるみたいです…


そのことを、子供に聞かれても、

なんとか、ごまかしている(←これでも、元気付けているつもり

なんだけど…)情けない私…。


食事が、なかなかとれなくて、栄養が、十分に摂れないので、

そのうち、病気になってしまうでしょう…。

子供は、生まれつき、健康な人に比べて、命が短いのです…

いつまで、生きられるか、わからないです…

私は、その時まで、元気で生きていて、子供のそばにいてあげて、

最期を、看取ってあげることが、できるでしょうか…


私の、自分のことは、自分から、行って、知ることができたのに。

子供は、自分からは、できないのに…。


難しいことだから、誰かに、相談しても、

最終的に、どうするか、決めるのは、親なのです…。

はっきり言って、

どうしたらいいか、わからないのです…





『 誰がほんとを 』     詩  金子みすゞ



誰がほんとをいうでしょう、 

私のことを、 わたしに。  

 よその小母さんはほめたけど、  
 
 なんだかすこうし笑ってた。    


誰がほんとをいうでしょう、 

花にきいたら首ふった。  

 それもそのはず、 花たちは、  
 
 みんな、あんなにきれいだもの。    


誰がほんとをいうでしょう、 

小鳥にきいたら逃げちゃった。  

 きっといけないことなのよ、  

 だから、言わずに飛んだのよ。    


誰がほんとをいうでしょう、 

かあさんにきくのは、おかしいし、 

 (私は、かわいい、いい子なの、  

 それとも、おかしなおかおなの。)    


誰がほんとをいうでしょう、 

わたしのことをわたしに。  





( 金子みすゞ 『 てのひら詩集 2 』 より )




この、金子みすゞさんの詩は、子供の真っすぐな心を、

豊かに、表現していて、とても好きな詩ですが…

その「真っすぐさ」ゆえに、

読んでいて、心が、痛くなります…


今まで、私が、知らない間に、

傷つけてしまった、人々へ…

そして、つい、傷つけてしまった、私の子供へ…

本当に、ごめんなさい。


私も…傷ついているのです…




読んでくれて、ありがとうです

それでは、また。。。


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『 不思議 』

2008-09-22 00:39:36 | books


自分が、子供だった頃、いろんなことが、不思議だった…。

でも、大きくなるにつれて、少しずつ、忘れていってしまった。


子供の頃のことを、思い出そうとすると、断片的に、「その風景」が、

表れてきて…。毎回、思い出す風景は、違うのだけれど…


例えば、さといもの、大きな葉を、傘かわりにさした、帰り道とか…。

昔、住んでいた、アパートの、狭い裏庭に、大きな、いちじくの木が、

あって、よく眺めていたこと…。

クリスマスの朝、枕元に、おもちゃの、金のくしと、金の手鏡が、

置いてあったこと…



けれど、私の子供のほうが、もっと、もっと、いろんなことが、

不思議で、たまらないようです…







『 不思議 』     詩  金子みすゞ



私は不思議でたまらない、 

黒い雲からふる雨が、 

銀にひかっていることが。  


私は不思議でたまらない、 

青い桑の葉食べている、 

蚕が白くなることが。  


私は不思議でたまらない、 

たれもいじらぬ夕顔が、 

ひとりでぱらりと開くのが。  


私は不思議でたまらない、 

誰に聞いても笑ってて、 

あたりまえだ、ということが。




( 金子みすゞ 『 てのひら詩集 2 』 より )



金子みすゞさんの、この『 不思議 』という詩は、

子供が、ふだん、何気なく、感じている、

自然の世界に、対する、純粋な想いを、

鋭く、表現していて、素晴らしいと思います

私も、小さな頃、きっと、よく「なんで?」「どうして?」と、

周りの大人に、聞いていたに、違いない…

でも、今は、その頃、何が知りたかったのか、

まったく、覚えていないのです…


あまりにも、いろんなことが、今まで、ありすぎて…

記憶のどこかに、埋もれてしまったのでしょう…




読んでくれて、ありがとうです

それでは、また。。。


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『 星とたんぽぽ 』

2008-09-19 03:19:29 | books


私の好きな、金子みすゞさんの詩です

星のこととか、 BUMP OF CHICKEN ( 略して、バンプ ) の音楽の、

特に、『 メロディーフラッグ 』 ( アルバム 『 jupiter 』 より )

のPVに、出てくる、どこの星にいるのか、わからないような、

広い海が、近くにある、不思議な場所に、

バンプのメンバーが、佇んでいて、

夜空に、満点の星たちが、輝いていたと思ったら、

あっという間に、昼間の明るい空になり、

一瞬にして、さっきまで輝いていた星たちが、消えて、

( 本当は、なくならずに、ずっと、そこにあるのだけれど )

なくなってしまうように、見えるところなど、

すごい、共通するところがあるなあ … と思います




『 星とたんぽぽ 』    詩  金子みすゞ



青いお空の底ふかく、

海の小石のそのように、

夜がくるまで沈んでる、

昼のお星は眼にみえぬ。


 見えぬけれどもあるんだよ。

 見えぬものでもあるんだよ。


散ってすがれたたんぽぽの、

瓦のすきに、だァまって、

春のくるまでかくれてる、

つよいその根は眼に見えぬ。


 見えぬけれどもあるんだよ。

 見えぬものでもあるんだよ。





( 金子みすゞ 『 てのひら詩集 2 』 より ) 




「 見えなくても、そこにあるもの 」 って、

実は、とても、大事なもの、だったりする。

そういう、ふだん、忘れてしまいがちなことを、

私も、そうだけど、子供にも、いつか、わかる日が来て、

ずっと、忘れないでいてほしいなあ ・・・

と、願っています




読んでくれて、ありがとうです

それでは、また。。。


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『 こころ 』

2008-09-17 05:50:24 | books


この、金子みすゞさんの 『 こころ 』 という詩は、

「 親心の、陥りやすい心理 」 を、みごとに、表現していて、

子供って、ちゃんと、親のことを、見ているんだなあ、と、

あらためて、考えさせられましたね ・・・

そして、身の引き締まる思いが、しました ・・・ 。

まさに、目からウロコ ~ な、

素晴らしい詩だと、思います ・・・




『 こころ 』     詩  金子みすゞ



お母さまは   

大人で大きいけれど。  

お母さまの  

おこころはちいさい。    


だって、お母さまはいいました。  

ちいさい私でいっぱいだって。    


私は子供で  

ちいさいけれど、  

ちいさい私の  

こころは大きい。    


だって、お母さまで、  

まだいっぱいにならないで、  

いろんな事をおもうから。    





( 金子みすゞ 『 てのひら詩集 1 』 より )



私も、「 こうでなくっちゃ ! 」 と思いますね ・・・ !!

ついつい、子供たちの心配ばかり、してしまうので ・・・

空っぽでは、困るけど、子供たちのことで 「 いっぱい 」 に、

ならないように、自分のことが、入る 「 すきま 」 も、

ちゃんと、つくっておかなきゃ、ね !!




読んでくれて、ありがとうです

それでは、また。。。


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