春から初夏の、庭の植え替えが、終わったと思ったら、あっという間に、梅雨が過ぎ去り、
この猛暑の中、毎朝毎夕の水やりで、ほとんど、疲れ果てて、エアコンのよくきいた部屋で、
もっぱら、読書をしている、というのが、ほぼ、わたしの日課です。
その間に、おちびさんたちのお世話と、学校への送迎、というのが、入るのですが ^ ^;
大好きな、須賀 敦子さんの、 『 本に読まれて 』 という本 ( 彼女の書評集です ) を、今、愛読しています
わたしが、ものごころついた頃から、なんとなく、感じていた、ある種の “ 違和感 ” とでもいうのでしょうか、
きゅうくつで、息苦しく、どうも、反射的に、なじめない、という、うまく説明できないような感覚が、
そこには、まるで、わたしの想いを、代弁してくれたかのように、ズバリと、描いてあったのに、驚きました。
わたしの中で、湧きおこっていた、すべての疑問に、答えてくれていて、読んだあとに、
「 あ、これだ。このことだったんだ! 」 と、合点がいって、妙な、すがすがしさを覚え、
放置してあったブログを、思い出して、書かずにはいられなくなったのです
『 松山さんの歩幅 』 ~ 松山 巌 百年の棲家 ~ という章に、こんなことが、描いてありました。
ドイツのボイロン大修道院から来た、 ヒルデブラント ・ フォン ・ ヤイゼン という名の神父が、
著者が、通っていた大学の、ヨーロッパの教会建築史 の講義をしていたときのこと。
「 ある日、どういうきっかけだったか、彼は、自分がもといたボイロンの大修道院の建物の天井が、
どれほど高いかということを私たちに理解させようとして、躍起になっていた。
そして、戦後、アメリカからの寄付やらバザーやらで、やっとこさ新築なった教室の天井を見上げて、
もう我慢できない、というように声をはりあげると、こう叫んだ。
こんなちっぽけな、こんな思想のない建物で暮らしていたら、きみたちはこれっぽっちの人間になるぞ。
建物が人間を造るということを、よくおぼえておきなさい。」
著者が、彼女のミラノの友人を、日本の彼女の家に招いたときのこと。
「 ああ、いい仮住まいだねえ、と彼は入ってくるなり、私がやっとローンを払い終えた部屋を、眺めまわしていった。
Pied a terre ピエダテールという、彼がその時使ったことばを辞書でひくと、仮住まい、なのである。
ふつう、 ≪ ほんとうの家 ≫ が田舎なんかにあって、都会で一時的に小さな部屋を借りる、
そんな住居のことをこう呼ぶのだが、友人がねぎらうつもりで使ったそのことばに私は、内心しょんぼりして、
ミラノにいた頃借りていた、私が生まれた年に建ったという、質素だけれど、厚ぼったい建築のアパートメントを
思い出したりした。どの部屋のドアにも、エンジニアだった家主さんのお父さんがホビーで描いた、
アールヌヴォーふうのガラス絵がついていて、住んでいるうちから、なつかしいような家だった。」
「 明治維新このかたの百三十年ちかくを、私たちは、なにかにつけ不本意に生きてきた。
日常生活の面でも、思想や哲学の分野でも、西洋と東洋の谷間に墜落したまま、
あっちでもない、こっちでもないと道に迷いながら、息を切らせ、青い顔をして歩いてきたように思える。
いや、都市計画や建築に関するかぎり、現在もまだ迷いつづけ、ひどい息切れから解放されないでいる。
その間、建物も道路も、どうすれば、より ≪ 大きな富 ≫ にたどりつくか、より ≪ 便利な ≫ 道路を造るか
という考え ( といっても、欲望、にすぎないから思想とはいえない ) にとりつかれた人たちの手で、
かなり一方的に計画が進行し、実行に移された。その結果、ほんとうはなにより大切なはずの、都市、
あるいは街路の在りようについての思想を探求することも、また、そこに棲む人間がほんとうはどのように
自分たちをとりまく環境と関係すればよいかについてじっくり考えることも、すべて後まわしにしてきた。
役に立つ、あるいは便利なものだけが求められた結果、多くの建物と街の眺めが破壊され、
そこに棲む人たちの心が踏みにじられ、そのために健康までが蝕まれているいま、
私たち日本の大都会に暮らす人間の多くは、愕然として、 ≪ こんなことになってしまった ≫ この街を眺めている。」
「 … 施政者たちが住宅と名づけるものの周囲には子供たちが走りまわれる空間がまったく不在でも、
普請中だ、過度期なんだから、と私たちは我慢を強いられ、我慢してきた。
走れ、といわれ夢中で走ってきた私たちは、ふたたび崖っぷちに立たされて、もしかしたら自分自身が落ちるかもしれない
底知れない奈落を眺めているような気もする。」
「 松山さんの本を読んでいると、ひとりひとりの人間にふさわしい歩幅、ということばが頭に浮かぶ。
明治からずっと、私たちが慢性の病気みたいに背負いこんでしまった生活のズレをふせぐには、
なにをするに当たっても、人それぞれの歩幅を、大切なものさしのように、しっかりと心の底に沈めておかなければいけないのではないか。
それなのに私たちは、国民の歩幅だとか、ひどいときには都民の歩幅などという、らんぼうで納得のいかない歩幅で歩かせられてきた。
いや、歩いてきた。
戦後しばらくのころのある夏の日、大手町近辺の道路を横断していて、どうしてもふつうの歩幅では、
信号が赤になるまえに渡りきれないことに、びっくりし、ふんがいしたことがあったのが、はっきりと記憶にある。
だけど、あれはほんの始まり、ほんのエピソードでしかなかったのだ。」
「 … そのころ、やがて自分が家をもつだろう、という考えにはとても至らなかったし、民主主義教育も受けていなかったから、
都市の在りようについて自分も口を挟む権利と義務があるということも、はっきりとした自覚をもたなかった。
でも、将来というようなものをこころに描くとき、この焼け跡よりはずっとましなもの、あかるい状況になるだろう、
と想像していたのはたしかだ。」
『 本に読まれて 』 が、書かれたのは、1998年です。
そして、2013年の今もなお、同じことが、くり返されているように思うのは、わたしだけだろうか。
それも、復興、という名のもとに。
須賀さんが、戦後に思ったように、あかるい状況になるだろう、と、今、将来に希望をもって、想像できる人は、
はたして、日本にどのくらいいるだろうか。
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