
帯広市カントリーサイン
現在、全国屈指の食料生産基地としての役割を果たす十勝地方、その最大の都市が帯広市です。
地名の由来は、アイヌ語の~川尻がいくつにも避けている~を意味する【~オペ~レペレケプ】と、十勝平野の広大な大地から、広の字を掛け合わせ、帯広~オビヒロの文字を充てられました。
ちなみに十勝の由来は、アイヌ語の~トカチペッ~意味は、【乳房のあるところ】とされ、十勝川の河口に乳房の形をした丘があったことから、アイヌが呼んでいた言葉を漢字で充てました。
現在では、肥沃な大地の広がる帯広市のある十勝平野は、広い原野がありなからもアイヌすら多くが住まない不毛の大地で、明治16年に入植した静岡の依田勉三か率いた開拓移民会社 晩成社が開拓移民を率いて訪れたのが最初でした。
晩成社は、創業者の依田勉三が大器晩成を夢見て名付けられました。
ただ、晩成社の入植は、苦難の連続でした。
入植間もなく野火が起こり、蚊やブヨに悩まされ、苦心の末に収穫期を迎えると、トノサマバッタの大群に襲われて作物は食いつくされました。
そして想像を絶する極寒の冬、依田勉三は、晩成社の幹部、渡辺勝と鍋を囲みます。
そして渡辺勝が【おちぶれた極度か豚とひとつ鍋】と詠むと、依田勉三が【開墾の始まりは豚とひとつ鍋】と返し、成功を夢見ました。
晩成社は、農業に留まらず、畜産や乳製品の製造にも力を入れますが、何れも失敗に終わります。
大正14年、中風に倒れ、死の床についた依田勉三は臨終に際し、【晩成社には何も残らん、しかし十勝平野には…】と遺しました。
勉三の死後、晩成社は解散しますが、晩成社が先頭となって手掛けた数々の事業が帯広に徐々に実を結びます。
野火に焼かれ、バッタに食いつくされた畑は、小麦、甜菜(てんさい、~ビート~砂糖の原料)馬鈴薯、豆類に彩られます。
中でも十勝平野で栽培された小豆は、大正時代から昭和初期に世界で高騰した豆景気の追い風に乗り、帯広は豆の国と変貌し、さらに、砂糖の消費が増えると、甜菜【てんさい、ビート~砂糖の原料】の生産に沸きました。
そして…
今や北海道を代表する菓子メーカーとなった帯広市発祥の六花亭が製造するバターを練り入れたマルセイバターサンドは、北海道ではじめてバターを製品化した晩成社を記念して作られたもので、現在も人気のお土産菓子となっています。
追記
帯広市からは、数々の著名人が輩出されています。
その一部から
清水宏保(長野五輪金メダリスト)
安住紳一郎(TBSアナウンサー)
吉田美和(DREAMS COME TRUE ボーカル)
中島みゆき(歌手)
植村直己(冒険家)…