
浜松市巡りの帰路、浜松市の北の三ヶ日町へ寄りました。
東海道の裏街道、姫街道の宿場町として知られ、それ以前から交通の要所として栄えました。
三ヶ日では、平安時代に謀反の容疑をかけられ、流罪となった貴族、橘逸勢(たちばなのはやなり)が病没、娘が草庵を結んだという言い伝えがあります。

橘逸勢神社
静岡県浜松市北区三ヶ日町本坂
橘 逸勢(たちばなのはやなり)は、平安時代の初期、空海、最澄らと共に遣唐使船に乗り唐に渡って留学した貴族で、空海、嵯峨天皇とならび、平安時代の三筆と称されます。
帰国後の逸勢は、琴と書に傾倒し、第一人者となるも、晩年に突如いわれのない陰謀に巻き込まれます。
842年 承和9年に嵯峨上皇が没した2日後の7月17日に皇太子・恒貞親王の東国への移送を画策し謀反を画策しているとして、朝廷の官人〜伴健岑(とものこわみね)と共に捕らわれました。
逸勢は棒で何度も殴られる拷問を受けるも罪は認めずにいましたが、5日後の7月23日には仁明天皇が謀反人であるとの詔勅が出され、住まいの春宮坊が兵によって包囲され、結局、大納言・藤原愛発や中納言・藤原吉野、参議・文室秋津は免官され、恒貞親王は皇太子を廃されます。
逸勢と健岑は最も重い罰を受け、逸勢は姓を非人と改めた上で伊豆国へ配流となり、健岑は隠岐国への遠島となり、両者への流罪が決まりました。(承和の変)
逸勢は伊豆への護送途中、遠江国板築(現在の浜松市北区三ヶ日本坂)で病没します。
このとき、逸勢の後を追っていた娘は板築駅まできたときに父の死を知り悲歎にくれます。
逸勢の娘はその地に父を埋葬し、尼となり名を妙冲と改め、墓の近くに草庵を営み、菩提を弔い続けました。
死後、逸勢は罪を許され、850年 嘉祥3年に正五位下の位階を贈られました。その際に逸勢の娘の孝行の話が都に伝わり賞賛されました。853年 仁寿3年には従四位下が贈位されました。


橘逸勢神社には、病没した逸勢は埋葬されたものの、罪を許され遺骸は京へ戻された際に銅鏡が代わりに埋められました。逸勢の墓石が祠の横に残されてます。