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日本歴史紀行

大河ドラマ どうする家康 紀行 16 伊賀八幡宮



伊賀八幡宮

愛知県岡崎市伊賀町


服部半蔵…

歴史に興味の無い人または、興味の薄い方。そんな方々でも、テレビ時代劇 水戸黄門で知られる徳川光國や、暴れん坊将軍の徳川吉宗、それに遠山の金さんの遠山金四郎景元。これらの人物の名は知っていると思います。

時代劇で活躍する彼らは、いずれも劇中で悪を成敗する英雄ですが、その活躍はかなり脚色されているものの、いずれも実在した人物です。


彼も徳川家康に仕えた実在した人物で、服部家を辿ると、半蔵正成の父、保長は伊賀忍者の本拠地である伊賀地方の上忍で、かつては足利将軍家の12代将軍 足利義晴に仕えていたものの、室町幕府に見切りをつけて出奔し、三河に移って松平清康【家康の祖父】に仕官しました。


大河ドラマ〜どうする家康の劇中で山田孝之さんが忍びではなく、武士にこだわっていましたが、まさしく服部氏は武家として家康に仕えました。



松平家は清康、広忠と2代続けて家臣に暗殺されるという不幸に遭い、最興されるのは、家康が岡崎城に帰り咲いてからです。

半蔵正成は、父、服部保長の五男として生まれながら、四人の兄を差し置いて服部家の家督を相続したことから、父にも劣らぬ器量を持っていたことは間違いないでしょう。

1562年 永禄5年、半蔵正成は家康の命により、三河上ノ郷城を攻め落とします。
この攻防で城主の鵜殿長照は討死、正成は鵜殿長照の子を生け捕りにします。

城主、鵜殿長照は、今川義元の甥にあたる人物で、当時、家康の長男、信康が駿府にあったことから家康は信康を取り戻すために、今川の血の流れる鵜殿長照の子を手中におさめ、人質交換の策で信康と正室 瀬名、長女 亀姫を取り返しました。

大名 今川氏最後の戦いとなった掛川城の戦いや、姉川、三方ヶ原、長篠と家康の主だった戦いには、常に伊賀衆を率いて参加しました。

なかでも、半蔵正成の働きが家康の生死を分けたのは、【本能寺の変】により織田信長が明智光秀に討たれたことで、当初 堺で遊覧の旅をしていた家康は、いわば敵の手中同然となった危機に見舞われます。

家康は自害も覚悟する程 狼狽しますが、本多忠勝らの説得もあり、伊賀山中を抜け、加太越えから伊勢湾に出て領国の三河に戻って軍勢を率いて明智光秀を討伐するべく、いわゆる【伊賀越え】を決意します。

絶望的な状況の中で、家康に幸運だったことは、塗炭の苦労を共に味わってきた古くからの重臣を引き連れていたことと、その中に伊賀地方に顔の利く半蔵正成が同行していたことでした。

半蔵は、一向より先行して土地の伊賀衆に加えて隣接する甲賀衆や信楽の領主らにも話をつけて家康警護の約束を取り付け、その数は約300名にもなりました。


途中、一揆勢らと武力衝突も興るも、家康自身が太刀を握って奮戦する様な事態にはならず、緊迫感は続いたものの、ついに伊賀山中から加太、伊勢白子へと抜け、伊勢湾から海路で三河に帰着しました。

家康の三大苦難として語り継がれる三河一向一揆、三方ヶ原の戦いは、いずれも領国内のもので、その際、家康は城に逃げ帰ることが出来ましたが、伊賀越えは領国から程遠い地での苦難で、その危機は計り知れないものでしたが、半蔵正成の活躍なくしては、無事の帰着は難しかったでしょう。

家康は伊賀越えの後、護衛に協力した伊賀衆と甲賀衆を召し抱え、半蔵正成の配下に加えました。

その後も半蔵正成と忍者集団は家康の手足となって働き、豊臣政権の大老から征夷大将軍と日本の武家政権の長として君臨するまで、影の活躍をして支え続けました。

なお、江戸城の西を守る麹町御門は半蔵門とも呼ばれ、半蔵の屋敷と伊賀衆の屋敷が構え、
万が一城から落ち延びる事態となった場合は、この門より抜け出して甲州街道へと逃れる手筈だったといいます。



岡崎市伊賀町の伊賀八幡宮は、松平宗家四代の親忠が伊賀より勧進して創建、徳川家康も戦に赴く際には戦勝祈願する祈願社として徳川家から庇護されました。

半蔵正成は伊賀八幡宮のあるこの地で生まれました。



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