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日本歴史紀行

家康のつぶやき 7 〜鎧櫃を持って参れ




太閤秀吉と甥の関白秀次の仲が険悪となり、
後に秀吉は秀次を切腹させ、妻子側室を含めた三十名以上が斬首となる秀次事件。

秀次の妻子が粛清された際に、秀次と近い関係にあった大名たちも多くが処罰を受けました。

この時に丹後(京都北部)の大名・細川忠興は秀次に多額の借金をしており、返済の目処が立っていなかったことから窮地に陥ります。

借金を理由に秀次から謀反への参加を促されたら断れなかっただろうと追求される恐れがあったからです。

忠興の筆頭家老の松井佐渡守康之自らが工面に奔走するも、細川家と親しい他家の大名らも、朝鮮出兵の負担等でとても余裕の無い有り様でした。

家康は忠興の家老・松井佐渡守康之は藁にもすがる思いで伏見の徳川屋敷を訪ね、主人の窮状をありのままに話しました。


家康は、小姓に【鎧櫃を持って参れ】と命じます。


家康の鎧櫃〜
家康が長年、貯め込んだ余剰となった金銭が入
った鎧櫃で、鎧櫃ごとに貯め納めた年が記載され、その鎧櫃には、永禄時代〜家康が三河の小大名として もがいていた頃のものでした。
現在の内閣で言うところの官房機密費〜当時の勘定奉行も知らない 言わば〜へそくり〜でした。


他家からは、吝嗇だと陰口を叩かれるのも構わず、家康には若年の頃に岡崎奉行だった鳥居伊賀守忠吉から、今川の代官の目を盗み、自立のための軍資金を積み立てていた苦労もあり、
〜いざ〜という備えを心掛けていました。

家康は、細川家の窮状を受けてこの借金を立て替え、忠興を救っています。

後に恩を受けた忠興は、秀吉死後に関係が悪化した前田利家との間を行き来して和解を仲介したり、また、関ヶ原の戦いでは、家康のために奮戦します。

戦後、忠興はこの借金を松井佐渡守康之に持たせ返却に訪れますが、家康は笑って受け取り、褒美として佐渡守康之に持たせました。






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